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刀根康尚── 『万葉集』を全部音にしてしまった作曲家(2)

●アナーキーに依拠するものもまたアナーキーである

刀根さんは1935年生まれ。1960年代にはインプロヴィゼーションに熱中しました。60年代といえば革命と解放の季節。後半に行けば行くほど、フリーセックスとかドラッグカルチャーとか、何でも自由で無秩序であればあるほどよいという思想が、政治経済から文化芸術までを席巻してゆきました。新左翼の理論家マルクーゼはたとえばこう言いました。産業文明は大発展し人間社会の生産力は未曾有の高まりを示している。人間みんなが物質的に贅沢できるだけのポテンシャルが世界には既に存在するのだ。ところが現実は? 貧しい人がたくさん居る。資本家が富を偏在させ管理し不自由に囲い込んでいるからそうなっているのだ。経済をフリーでアナーキーにしろ! そうすればみんなに分け前が行ってハッピーだ!

他の領域も同じ論法で語られました。人間は性的快楽を追求する本能を有しているのに一夫一婦制がその十全な実現を拒んでいるからフリーでアナーキーにしろ! 音楽でもそうです。人間には広大な無意識の領域がある。胎児や赤ちゃんだった時代の記憶とか少年時代の想念とか。そこから人間精神に湧き起こるイマジネーションは無限大だ。それを解放すればきっと豊かな音楽ができる。ところが、常識に囚われた意識が無意識を抑圧している。楽譜とか従来の作曲法や演奏法とかが音楽の可能性を束縛し、解放の邪魔をする。ならば真にフリーでアナーキーな音楽をやるためには心を無にしての即興演奏しかない! 1960年代のフリージャズや現代音楽畑での集団即興はそういう思想に根拠づけられていた。

ところが蓋を開けると必ずしもうまくゆかない。難関は大きく2つ。まず実際的な次元です。無意識の解放とは言うは易く行うは難し。意識を自由にするとそこにいちばんに表れてくるのは革新的なものよりも動物的なものです。無意識でもやれる、身体の覚えている動作です。指の動かし方、呼吸のパターン……。身についたものしか出てきにくくなる。そうするといつかどこかで弾いたような、聴いたようなルーティーンに落ち込むしかない。即興の理想と現実は甚だしく乖離してしまう。

もうひとつは理屈っぽい次元です。文化や芸術でフリーやアナーキーを追求するとはつまりは意味に囚われない状態を目指すわけでしょう。無意味にこそ意味を見出だしたい。60年代後半に赤塚不二夫のナンセンスギャグ漫画が流行ったのもそういう理由です。けれどこのスローガンも通りにくい。人間はやっぱり意味を求める動物なんですよ。恋人と語る。原発のニュースを聞く。絵を観る。みんな意味を考える。読み解こうとする。そんな人間の当たり前を揺り動かし犯し壊すものとしては確かに無意味は意味を持つ。けれど揺り動かすとか犯すとか壊すというのは瞬間的短期的にしか機能しにくい。安定して意味があると思っているところに、地震や津波のように、あっという間にどっと来る。参りましたとシャッポを脱ぐ。でも地震や津波が何時間も何日も来っぱなしだったらどうなります? 耐えられますか? サディズム/マゾヒズムの領域でしか語れませんよ。そこまでの過剰な無意味を喜べるのは狂気に囚われた方々のみでしょう。人間は純粋な無意味には長いこと耐えられない。フリーでアナーキーを標榜するばかりの芸術は一時は持ち上げられることがあったとしても、すぐ捨て去られる運命にある。

刀根さんは長い遍歴の末、そのへんが身に染みている。2つの難関をよく知っている。でも他の同世代の大勢のようにフリーでアナーキーな芸術を諦めなかった。思想を深め工夫を加えた。そこが刀根さんの凄さです。そうして辿り着いたのは、言うならば、意味から生まれ意味に基礎づけられているようにみえるけれど実はやっぱり無意味なんじゃないかという世界でしょう。あるいはコンセプトのあるナンセンスな世界というか。

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カテゴリ : Exotic Grammar

掲載: 2011年06月09日 17:00

更新: 2011年06月10日 18:10

ソース: intoxicate vol.91 (2011年4月20日発行)

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