フュージョンが夢見たもの(2)
カテゴリ : Exotic Grammar
掲載: 2011年05月17日 21:47
更新: 2011年05月17日 22:12
ソース: intoxicate vol.91 (2011年4月20日発行)
text:青木和富
フュージョンとは融合という意味で、当初は他の要素を溶け込ませたということで使われたが、しかし、実際のところ、こうした全般的な拡散は、融合というより、むしろ、要素の崩壊と言った方がいいように思う。実際、70年代以後の状況は、様々な要素を取り込むことによる斬新な世界の構築といったイメージがあったが、本当はこうしたことで生まれたのは、むしろ、平均化、均質化された世界であった。おそらくこれは、要素を超えた世界の一元化という大きな流れにつながっているように思う。
話はそれるが、80年代にウィントン・マルサリスらがジャズの復古を目指し登場したが、大胆かもしれないが、これもある意味フュージョンと言っていいかもしれない。ウィントンに対して、程度の差こそあれ反発したマイルス、キース・ジャレット、その他のベテランたちは、ジャズの伝統を形式的にとらえられてしまったことへの違和感があったと思う。ジャズの文化の内部でもこうした平均化、均質化の波に逆らえなかった。
こうしてみると、1970年代は、大きな時代の節目にあって、音楽の世界では、気づかないうちにその地盤が、静かに崩壊し、新たにその荒地のような土地に様々な種が蒔かれた時代だったかもしれない。フュージョンとはその総体で、一つの流れでもないし、また互いに密接につながるものでもない。フュージョンの歴史で1969年録音のマイク・マイニエリの『ホワイト・エレファント』が伝説的な作品としてあげられるが、これはその後のステップス・アヘッド(ステップス)、ブレッカー・ブラザーズ等のメンバーが集合しているということが話題で、内容よりも人脈の起源という意味合いが強い。そして、重要なのが、こうしたミュージシャンは、いわゆるスタジオ・ミュージシャンの仲間たちで、様々な音楽の裏方だったということだ。彼らが働くスタジオでは、それこそ様々な音楽が交じり合っていて、そうした環境そのものがフュージョン・ミュージックの母胎となったというわけである。演奏家も作編曲者も、その職人的、専門的な技と感覚が表に出たとき、そこに新しいポップで同時に音楽的にも洗練された世界が出現し、それが音楽ファンの耳に届けられ、フュージョンと呼ばれる音楽が生まれたということになる。これはとくにバンドでの広がり方をみせた日本で注目されたことで、むろん、これがフュージョンの成り立ちのすべてではない。実際、彼らはこれで世界的な人気、名声を得たわけではなく、一部の例外を除き、ほとんど裏方としての範囲を出るものではなかった。
一方で、ファンクやロック、その他の音楽との境界をすり抜けながらオリジナルな音楽を模索するミュージシャンが出現し、むしろ、そうした音楽家こそ、この時代の意味を体現していたと言っていい。たとえばパット・メセニー、ウェザー・リポート、ハービー・ハンコック、さらにはマイルス・デイヴィス、オーネット・コールマンなどをあげてもいい。彼らのどこに繋がりがあるのかは簡単には言えない。いや、言えないことが彼らのこの時代の独創性の証明ではないだろうか。そして、ちょっとひねくれた意見かもしれないが、もう一人ここにキース・ジャレットのスタンダード・トリオをあげてもいいかもしれない。スタンダードを取り上げているからジャズの伝統、文化に根ざしているのではないかと言うかもしれない。確かにそうなのだが、けれど、ジャレットの演奏は、むしろ、ジャズの伝統そのものではなく、その再創造の意味合いが強く、そこに独自性がある。ジャレットがメロディーをつむぐ緊迫感は、かつてジャズはこうだったというよりも、さらに拡張し、推し進め、純化されている。瓦礫にまみれた荒地から、ジャズの命を発見し、それを育てている感じなのだ。ヨーロッパのピアニストたちの多くがジャレットに心酔する理由がここにある。単なるジャズの伝統ではなく、ここには、自分たちも共有できる新しいジャズの創造性があるということだ。
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