小室哲哉
絶頂を極めたスターが落ちていくのを見たくないか?と問われれば、見たい。しかしながら、2008年末に詐欺事件で逮捕された際の小室哲哉を見てつくづく思ったのは、彼はそういうスターじゃなかった、ということだ。
黄金時代に流布された小室のイメージといえば、計算ずくで楽曲を制作し(もちろんそうであっても構わないが)、さまざまなビジネスに手を伸ばしながら富と名声を手に入れてきた時代の寵児として語られることも多かったものだが、諸々の状況から判断して確信できたのは、彼は単に天才的で純粋な〈音楽バカ〉なんじゃないか?ということだった。実際にその事件が、コマーシャルな成功ゆえに軽視されてきた彼の音楽自体の魅力に久々に向き合うきっかけになった人も多いのではないだろうか? もちろん、罪を犯したら法に則って罰せられて当然だ。2009年5月に刑が確定する前後は、バッシングも含めてさまざまな報道がなされた。それでも、ファンや業界内の関係者からの復帰を待望する声も予想以上に大きかったのだろう。謹慎期間を経て、やがて復帰の道は開かれていく。
2009年の〈セカンド・カミング〉といえば、命をもって世間の評価を覆したあの人を思い出してしまう。もちろん彼は謂れのない裁判やゴシップでキャリアを潰された側の人だから、引き合いに出すのも不謹慎なのは承知だが……小室がもう一度音楽で再生するために〈死〉は必要だったのだろう。奇しくも彼らは同じ58年生まれである。
グループで手にした成功
後にglobeの“FACES PLACES”(97年)のリリックで仄めかされるところによれば、最初のきっかけは70年に訪れたようだ。彼は58年11月に東京の府中市で生まれているから、当時は11~12歳。で、その年には日本万国博覧会(いわゆる大阪万博)が開催されたのである。そこで冨田勲を通じてシンセサイザーなるものの存在を知った彼は、家にあった楽器を家族に無断で売り払い、ローランドSH1000を購入したのだという。ある意味、そこが〈音楽バカ〉のスタート地点だったのだろうか。学生時代からすでに作曲の才能を発揮していたという彼は、複数のバンドにキーボーディストとして参加し、大学に進学するとプロのミュージシャンとして活動を開始。ほぼ音楽活動に没頭し、授業料で楽器を購入しまくったあげくに除籍されたというから、彼にとっては音楽そのものが〈手段〉ではなく〈目的〉だったということもよくわかる。
白竜らのバックで演奏を経験する一方、80年には木根尚登の率いるSPEEDWAYに途中加入。多摩地区を拠点とし、すでにレコード・デビューも果たしていたこのバンドには宇都宮隆も在籍していた。そこから発展する形で83年に生まれたトリオがTM NETWORKである。コンテストでグランプリを受賞した彼らは、翌84年にデビュー。デビュー・シングル“金曜日のライオン”では、すでに小室独特の大胆な転調がフィーチャーされていた。
いわゆるロック・バンド形態でなくキーボード+ヴォーカル+ギターというフォーメーションは、YMOを後継するテクノ・ポップの流れで見られることもあったそうだが、実際にデビューと同時に作家仕事も始めた小室は、YMOのメンバー個々が歌謡曲のフィールドでも活躍する様を目標とするかのようでもあった。岡田有希子の“Sweet Planet”(85年)などを経て、作曲を担当した渡辺美里“My Revolution”(86年)がヒットすると、TM NETWORKの人気も徐々に上昇気流に乗っていく。86年の3作目『GORILLA』(ワイルド・バンチがラップで参加!)からファンクとパンクとファンを掛けた〈FANKS〉なる音楽性を標榜していた彼らは、マン・マシーン化を推進した翌年の『Self Control』をオリコン3位に叩き込むと、5か月後にはベスト盤『Gift for Fanks』で初のNo.1を奪取。そのうえ、ファンク色を強めたLA録音の『humansystem』もその年のうちに発表している(これも1位に)。ブラック・コンテンポラリーやユーロビートなどの流行を作品にフィードバックするセンスの良さもあきらかな一方、繊細な佇まいで鍵盤を操る小室は〈王子様〉的なアイドル人気も集めるようになっていた。が、88年にロンドン暮らしを始めた小室は、グループ最大のヒットとなるプログレ調のコンセプト作『CAROL ~A DAY IN A GIRL'S LIFE 1991~』(これも1位)のベーシックな制作を現地で行う過程で、自身のプロデューサー気質を確信していたという。
ミュージシャンからプロデューサーへ
TM NETWORKが活動を休止した89年には、自身の歌う“RUNNING TO HORIZON”(これも1位)でソロ・デビューを果たし、アルバム『Digitalian is eating breakfast』もリリース。バンド・ブームのなかにあって、時流に逆行するかのようにデジタルなダンス・ビート化を進めていく。
90年にはTM NETWORKを〈TMN〉として再始動し、ハード・ロックやハウスを採り入れた『RHYTHM RED』(これも1位)をリリース。とはいえ徐々に活動は停滞し、94年にはTMNの〈終了〉が発表された。(その時点での)最後のアルバムの名は、ズバリ『EXPO』(91年)。万博の衝撃から始まったミュージシャンとしての歩みにそこでひと区切りをつけたのか、新興レーベルであるavexとの関わりを深めていた小室は、TK TRACKSなる自身のレーベルを91年に設立し、ダンス・イヴェントを開催するなどして次のアクションをすでに模索していた。
そんな新たな交流から生まれたのが、DJとダンサー、シンガーらの集合体として“GOING 2 DANCE”(93年)でデビューしたtrfである(最初期は小室自身も一員だった)。UKとUSでも12インチをリリースした彼らは、当初は欧州のレイヴ・サウンド(の一部であるハードコア・テクノ)を意識していたが、結果的にはメンバーを絞って固定ユニット化し、歌を重視していくことで日本のお茶の間でもブレイクする。彼らの人気を呼び水に、篠原涼子らのプロデュースを開始した94年から〈小室ブーム〉と呼ばれる時代が始まるわけだが、同年には初期trfのアイデアを再構築した不定形のプロジェクト=EUROGROOVEも始動しているから、海外進出への意思は強かったのだろう。
安室奈美恵のプロデュースを開始した95年には、H jungle with tが異常ヒットし、当時の恋人に華原朋美の名を与えて自身の新レーベルとなるORUMOKから送り出し、hitomiやdosなども手掛け、自身も属する新ユニットのglobeを結成……と、まるで絶頂期のジョージ・クリントンのように複数のレーベルを跨ぐヒットメイカーとして君臨。翌年にはそれらが一気に数字に反映され、globe、安室、華原のアルバムがそれぞれ400万、300万、250万枚と、セールス面では前人未到の域へと突入している。象徴的だったのは、同年4月15日付のオリコンチャートでシングルの1~5位を小室のプロデュース曲が独占したことだろう。その一方では〈メディア王〉のルパート・マードックと香港に合弁会社を設立し、後々のアジア進出に伴う苦境への下地も生まれていた。この〈小室ブーム〉はglobeが日本初の4大ドーム・ツアーを成功させた97年頃までは継続していく。
音楽的な野心とポップメイカーとしての本分
それでも改めて実感できるのは、小室自身の〈野心〉が基本的には音楽的な欲求に根差したものだと思えることだ。先述した“FACES PLACES”にはもうクタクタな当時の心境が綴られているように、作風そのものはまさに98年頃からどんどんパーソナルな色合いを濃くしていく反面、プロデュース仕事もレーベル展開も拡大の一途を辿り、サウンド志向もプロジェクトごとにいっそう多様化していった。もちろんある種の万能感に背中を押されていたのだろうが、多種多様な音楽スタイルにトライしてみたいという根本的な欲望もあったに違いない。本人はかつて〈食事に行っただけでマーケティング・リサーチしてると言われる〉と不満を述べていたが、彼の音楽への取り組みは勝手にイメージされるほどロジカルなものではなく、感覚的な振れに左右された(良い意味で)思いつきに近いものじゃないか。
90年代末からの小室はゴア・トランス~プログレッシヴ・ハウス的なサウンドを追求する一方、ティンバランドのような新しいクリエイターに刺激されてR&Bにも傾倒している。公私に渡るパートナーのASAMI(元dos)と結成したTRUE KiSS DESTiNATiONは当初インディーで素性を明かさずに12インチを出していたのだが、もしかしたら小室自身もレッテルを一度剥がした地平で勝負したかったのではないか……というのは想像が過ぎるか。ただ、個人的には、同ユニットなどの披露したTK式R&Bサウンドは非常に独特でおもしろい。彼らが拠点とした新レーベルのTRUE KiSS DiSCからは鈴木あみのヒットも生まれるものの、ブームの度合いが大きかったぶんだけ落差や反動は大きかった。それでも新たにROJAMやTatsumaki、factoryorumok、TKCOMなどのレーベルが次々に立ち上がって活動は多角化していくが、いずれも事業的な目新しさばかりが先に立って、肝心の音楽面に関しては、本人も後に認めるように〈曲が書けなくなって〉しまっていたそうだ。
思えば彼の音楽には、何かもったいぶったことをやろうという邪念はそもそもなかったし、ロックな反体制気分を振りかざすこともなかった。基本はひたすら聴き手に寄り添うポップスだ。復活後は創作に専念することを表明して原点となる〈音楽バカ〉に回帰し、復帰作となるAAAのシングル『逢いたい理由/Dream After Dream ~夢から醒めた夢~』(2010年)は小室にとって8年ぶりのチャート1位に輝いた。しかしながら、数字そのものに意味があるんじゃないということは、もう言わなくてもわかるだろう。
▼近年の小室ナンバーを含む作品。
左から、SMAPの2010年作『We are SMAP!』(ビクター)、超新星の2010年作『SUPERNOVA BEST』(ユニバーサル)、SUPER☆GiRLSの2011年作『超絶少女』、北乃きいのニュー・アルバム『心』(共にavex trax)
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