忌野清志郎(2)
カテゴリ : Exotic Grammar
掲載: 2011年05月02日 20:10
更新: 2011年05月06日 13:28
ソース: intoxicate vol.91 (2011年4月20日発行)
text:北中正和
子供のころ、小さなことで悩んでいると、大人から、お前の悩みなんて、でっかい宇宙から見れば、けしつぶよりもちっちゃいんだよ、だから気にしなくていいんだよ、というようなことを言われたことはなかっただろうか。ぼくなどは根が単純にできているものだから、そう言われると、なるほどそうなのかと、つい思ってしまうほうだった。
暗示にかかりやすいのは、ある意味、幸せなことかもしれない。頭の中には、カメラが引くにつれて、登場人物が遠ざかり、街が遠ざかり、国が遠ざかり、地球が遠ざかり、太陽系が遠ざかり、銀河系に吸いこまれ、やがてその銀河系でさえ宇宙空間に点となって消えていく映像が浮かんでくる。そして悩みや悲しみが、完全に消失することはないにせよ、ゆっくりと霧散していくような気がした。
大きな宇宙から見れば、自分はたしかにチリより小さい存在でしかない。感情の動きはその自分の一部分の出来事だから、さらにとるにたりないことのように思える。
いちおうそんな理屈を頭の中で思い浮かべてみるのだが、だからといって、**ちゃんと手をつないで一緒に幼稚園に行きたいのに、**ちゃんに断られるのが恥ずかしくて、なかなか言い出せない、どうしたらいいんだろう、という悩みが消えたわけではなかった。われながらふんぎりの悪い奴だったと思う。
次元のちがう話だが、人はいずれ必ず死ぬんだから、愛する人が病気や天災や事故で亡くなったのをいつまでも悲しんでいると、かえってその人が浮かばれない、ということもよく言われる。
人がいつか死ぬのは動かしがたい事実だ。それに、大きな宇宙から見れば、今回のような大天災ですら、これまたけしつぶよりちっちゃい出来事かもしれない。しかし身近な人が亡くなって悲しみのきわまっているときにそう言われても、それを即座にすんなり受け入れられる人はけっして多くないだろう。人は大きな宇宙の次元だけで生きているわけではないからだ。
われわれは感覚や知性や感情を持つ小さな生き物として宇宙によって作られた。だからその感覚や知性や感情は、たとえとるにたりないようなものであったとしても、それもまたまぎれもなく宇宙の意志の一部分をなしている。極大と極小の間で、われわれの気持ちは揺れ動き、あるいは宙吊りになる。よく死者が浮かばれないと言うが、それ以上に残された者の気持ちが浮かばれないのである。
それを解き放つために古の人たちが考えたのが、あるいは考える前に本能的にとった行ないが、祈りや儀式や芸能のはじまりだった。いまでは祈りや儀式や芸能というと、それぞれに分化も様式化も進んでいるが、原初においては、それらは形態も境界もあいまいなままだった。
とまあ、あたかも現場で見てきたようなことを書いているが、ぼくはそんなに長生きしてきたわけではないから、話を適当に割り引いて読んでいただければと思うが、祈りや儀式や芸能が、何らかの特別な事情に対応するため、日常から一時的に飛躍するものとしてはじまり、いまもそういう性格を持っていることはまちがいないだろう。