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キャプテン・ビーフハートと ミック・カーン(3)

カテゴリ : Exotic Grammar

掲載: 2011年04月19日 21:17

更新: 2011年04月20日 16:24

ソース: intoxicate vol.90 (2011年2月20日発行)

今年の1月4日に、もうひとり元ジャパンのベーシスト、ミック・カーンが鬼籍に入った。ジャパンの楽曲に聴かれる、あのフレットレス・ベースのフレーズは、スティーヴ・ジャンセンのドラムズとともに、バンドのグルーヴを特徴づけるものだった。ジャパンといえば、ポスト・パンク期の78年にデビューした、ロキシー・ミュージックやデイヴィッド・ボウイなどのモダーン・ミュージックを滋養として育ったバンドである。それゆえ、カーンのフレットレス・ベースはどこか、ブライアン・イーノのアルバムにも多く参加しているパーシー・ジョーンズを思わせるところがある。ジョーンズがブランドXなどのフュージョン系バンドでも演奏するテクニシャンであるのに対して、カーンは楽器を独学で習得し、楽譜を読み書きはできなかったという。しかし、81年のジャパン最後のスタジオ録音作品『錻力の太鼓』で聴かれるフレットレス・ベースは、大胆にシンセサイザーを導入したサウンドの中にもしっかりとそのフレーズを屹立させていた。JAPAN

かつてデイヴィッド・シルヴィアンがインタヴューで「ジャパンの中にミュージシャンといえるのは、スティーヴ・ジャンセンしかいなかった」という主旨の発言をしていた。それを読んだ当時、ミック・カーンは違うのだろうか?と思ったことを覚えている。彼のあの独特なフレーズを奏でるフレットレス・ベースや、アフリカン・フルートなどのさまざまな楽器を演奏するマルチ・プレイヤーとしての印象がそう思わせたからだろう。しかし、それはのちに矢野顕子の82年の作品『愛がなくちゃね』のレコーディングにジャパンのメンバーが参加した際に坂本龍一が自身のラジオ番組で話していたことを聴いて、なるほどと納得させられた。それは、彼らは楽譜が読めないということは少なからず知られていたが、演奏は最初はうまくいかないが、レコーディングのテープを一度持ち帰り、ホテルで一所懸命練習し、翌日には自分のパートを完璧にマスターしてスタジオに現れる、という話だった。まるで、隊長のマジック・バンドの地獄の特訓ではないが、シルヴィアンが言っていたのは、カーンは体で覚え込ませるタイプの、感覚派のミュージシャンであるということだったのだ。ジャパンの末期には来日し、彫刻展を開いたりと、音楽にとどまらないアーティスティックな側面を広げていたように見えた。しかし、それゆえにシルヴィアンとのエゴの衝突があったのか、バンドはその頂点にして解散してしまう。

ジャパン在籍時に制作された、ソロ第一作である『心のスケッチ(Titles)』(82年)や、残念ながらアルバム1枚しか残さなかったが、ジャパン解散後にバウハウスのピーター・マーフィーと結成した、ダリズ・カー(隊長の『トラウト・マスク・レプリカ』に同名の曲が収録されているが、その関係は不明)の『ウェイキング・アワー』(84年)では、自身の音楽的指向性が全面的に展開された非凡な作品となっている。それはフレットレス・ベースの不安定なフレーズを、キプロス出身という出自と重ね合わせ、自身のアイデンティティとするという表明でもあるかのように。

参考文献:マイク・バーンズ著 茂木健訳 『キャプテン・ビーフハート』河出書房新社

Captain Beefheart(きゃぷてん・びーふはーと)
41年、カリフォルニア生まれ。キャプテン・ビーフハートという名前は、高校時代に知り合ったフランク・ザッパが企画していた映画のキャラクターに由来する。65年にキャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンドを結成し2枚のシングルを発表後、67年にアルバム『Safe as Milk』を発表。本作からギターにライ・クーダーが加わる。69年にザッパのストレート・レコードに移籍し『Trout Mask Replica』を発表。78年にはメンバーを一新して製作された『Shiny Beas』を80年には『Doc at the Radar Station』をリリース。82年の『Ice Cream for Crow』を最後に音楽活動から退き、画家生活に入る。2010年12月17日に多発性硬化症の合併症により逝去。享年69歳。

Mick Karn(みっく・かーん)
58年、ギリシャ系キプロス人の家庭に生まれる。3歳の時に家族とともにキプロスからロンドンに移住。74年に同じ高校に通うデヴィッド・シルヴィアンと実弟のスティーヴ・ジャンセン、リチャード・バルビエリとともにJAPANを結成。82年のバンド解散後はソロ活動と並行して、元バウハウスのピーター・マーフィーとのダリズ・カーや、佐久間正英、土屋昌巳、屋敷豪太らとのバンド、The d.e.pに参加するなど、多数のミュージシャンとの共作を多く残した。癌である事を公表し、闘病生活を送っていたが、2011年1月4日に逝去。享年52歳。

寄稿者プロフィール:畠中実(はたなか・みのる)
NTTインターコミュニケーション・センター[ICC] 主任学芸員。1968年生まれ。主な企画展は『サウンド・アート』 (2000年)、『サウンディング・スペース』(2003年)、『サイレント・ ダイアローグ』(2007年)、『可能世界空間論』(2010 年)、『みえないちから』(2010年)など。そのほかいろいろやってます。

 

 

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