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特集

CYNDI LAUPER

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2011年03月04日 18:16

更新: 2011年03月04日 18:17

ソース: bounce 329号 (2011年2月25日発行)

文/出嶌孝次

 

 

「これは私が長い間作りたかったアルバム。収録されている楽曲は、どれも私の生涯をかけて賞賛すべきものばかりよ。アラン・トゥーサンが“Shattered Dreams”で鍵盤を叩いた瞬間、このアルバム制作がスペシャルなものだということを感じたわ」。

2010年6月にリリースされ、このたび日本盤化されたばかりのアルバム『Memphis Blues』についてのシンディ・ローパーのコメントである。収録されたのは、いずれも聖地メンフィスで録音されたブルースのカヴァー。キャリアを重ねたアーティストの多くが、ルーツに立ち返って往年の名曲に挑むことは多い。乱暴なことを言ってしまえば、そういったカヴァー作品に何か消極的な動機を感じることは少なくないのだが、彼女の場合は言葉通りの特別な思いを抱いての言葉に違いない。では、彼女の思いとは何なのか、今回はそのアンユージュアルな歩みを紐解いてみよう。

 

苦難の果ての成功

世代によって違うだろうから断定的には言えないものの、恐らくシンディ・ローパーをまったく知らないという人はあまりいないはずだし、そうじゃなくても彼女の書いた普遍的な名曲——例えば100を優に超えるカヴァーを生んだ“Time After Time”を聴いたことがない人は少ないのではないか。とはいえ、同じく代表曲とされるメジャー・デビュー・シングルの“Girls Just Want To Have Fun”も、全米No.1を獲得した“True Colors”も自身のペンによる楽曲ではなかったりするのは彼女らしい。つまり、シンディは単純に歌いたい曲を歌い、歌いたい内容を書いてきたのだ。誰の曲でもユニークな解釈で自身のものにできる彼女は、その登場時から極めて個性的なヴォーカルとヴィジュアルでセンセーションを巻き起こしたのだった。

ファースト・アルバム『She's So Unusual』(83年)の頃のトレードマークは、真っ赤な髪とカラフルでエキセントリックなファッション。野太くパワフルな歌唱にフリーキーなアドリブ、喉を鳴らすようなシャウト、一方で不意に繊細な少女のような危うさもジワリと醸し出してくる変幻自在なヴォーカルは、当時では(いまでも?)まったく見当たらないタイプの個性だった。翌84年に先述の“Girls Just Want To Have Fun”が全米2位まで上昇すると、続く“Time After Time”はNo.1に輝き、3枚目のシングル“She Bop”は3位、そのまた次の“All Through The Night”は5位……と、女性ソロ・アーティスト史上初となる、デビュー作から4曲連続のTOP5ヒットを放っている。アルバムも800万枚以上のセールスを記録。同時期に台頭していたマドンナと並び称される格好で〈新しい時代の女性アーティスト〉像を担っていたのも納得の活躍ぶりだが、その時点では数字の面でも賞レースでもズバ抜けていたのはシンディだった。当時のPVなどを観てみれば、後のポップ界におけるガール・パワーの雛形を彼女の振る舞いに見い出すこともできるのではないだろうか。

が、デビューからいきなり収めたように見える成功の最中にあって、当人の不満は大きかったという。創作のイニシアティヴは掌中になく、納得できないアレンジでレコーディングに臨む曲もあったそうだ。本人は「私は白人だけど、影響を受けてきたのは黒人音楽なの。ずっとビリー・ホリデイを聴いて育ったのよ」と当時を振り返っている。

 

 

シンディ・アン・ステファニー・ローパーは、NYはクイーンズで53年に生まれた。スイス/ドイツ系の父親とイタリア系の母親はシンディが5歳の時に離婚、彼女は母の元で弟らと成長していくことになる。子供の頃から芸術に関心が強く、12歳でギターを弾いて歌ったり、詩を作ったりして個性を発揮する反面、学校では同級生や教師たちにまるで馴染めず、絵を描いてばかりいるような〈問題児〉だったそうだ。17歳で高校をドロップアウトした彼女は、愛犬を連れて家出をし、スケッチブックと寝袋を抱えてヒッチハイクでアメリカ~カナダを放浪して回り、戻ってきたNYでシンガーとして活動していくことを決意する。いくつかのバンドでヴォーカリストとして活動した後、紆余曲折を経て出会ったジョン・テュリと意気投合。78年にブルー・エンジェルを結成して意欲的に動きはじめた。

50sのロックンロールやロカビリーを持ち味としたバンドはポリドールと契約し、唯一のアルバム『Blue Angel』を80年に発表している。が、オールディーズ寄りの音楽性を巡ってレーベルとの関係はリリースの時点で悪化しており、満足なプロモーションもされないままセールス面では惨敗。さらに悪いことには、レーベルとの契約を解消する際に解雇したマネージャーに訴えられ、賠償金の支払いを命じられるなか、82年にバンドは〈Studio 54〉でのギグを最後に解散。他のメンバー同様に自己破産を選んだシンディではあったが、アルバイトをしながら歌うなかで新しいマネージャーのデヴィッド・ウルフと出会う。やがて恋仲になったふたりはデビューに向けて奮闘し、ポートレートとの契約に成功。そして生まれたのが先述の『She's So Unusual』だ。シンディはすでに30歳になっていた。

 

 

自由な活動へ

華々しいデビューを経て、85年のグラミー賞では最優秀新人賞を受賞。満を持して放ったセカンド・アルバム『True Colors』(86年)も初作には及ばないながら、貫禄十分な大ヒットを記録している。特に虹の輝きを引き合いに出して〈ありのままの自分を出すことを恐れないで〉と鼓舞する表題曲はゲイ・コミュニティーへのメッセージとして愛され、後々のシンディが社会活動へと踏み出していく大きな契機となった。が、南アフリカの人種隔離政策に異を唱えて書いた“A Part Hate”がアルバム収録を却下されるなど、思い通りに行かない部分もまだまだ大きかったようだ。87年、初の主演映画「バイブス 秘宝の謎」の撮影に入るあたりから彼女は創作活動に行き詰まりはじめ、婚約したまま4年が経っていたマネージャーのデヴィッド・ウルフとも別れている。

 

 

88年、ソ連で開催された〈ソングライター・サミット〉に出席してリフレッシュした彼女は、翌年にようやくサード・アルバム『A Night To Remember』を生み落とす。先行シングル“I Drove All Night”のヒットに反してアルバムは最高37位と大きく成績を落としたのだが、逆にこの躓きによって商業的な成功のプレッシャーから解放されたことが、彼女のフットワークを文字通り軽くしたのだろう。オノ・ヨーコやレニー・クラヴィッツらとの交流を通じて社会活動や反戦運動へも視野を広げながら、91年には映画「マイアミ・ムーン」の撮影で出会った俳優のデヴィッド・ソーントンと結婚。コマーシャルな成功よりも自由な活動を望む夫の後押しも得て作り上げた4作目『Hat Full Of Stars』(93年)はシンディがアーティストとしての信念を貫いて作り上げたリスタートの力作となった。以降の歩みはポップスターとしては自由気ままで、さまざまな音楽の要素を好き放題に採り入れた音楽性も著しく雄弁になっている。94年のベスト盤に収められた“Hey Now(Girls Just Want To Have Fun)”はデビュー曲をレゲエにリアレンジしたものだが、これがドラッグ・クイーンを描いた映画「3人のエンジェル」(94年)で使われてまたもゲイ・アンセムと化してしまうのだから、何とも常識破りじゃないか。言ってしまえば、本当に彼女はアンユージュアルだったのだ。総合チャートの最前線に話題を投入することはなくなっても、それとはまた違うレイヤーでの影響力は変わらず絶大で、マイペースながらもアルバムごとに歌いたい歌を大切に歌うという姿勢にはまったくブレがない。しかも、ヴェテラン然として落ち着いてしまうのとは少し違う。アックスウェルやピア・アストロムといったヨーロッパのハウス・クリエイターを動員したアッパーなダンス・アルバム『Bring Ya To The Brink』(2008年)のタイミングでは久々に武道館公演も実現させ、パワフルに進化したパフォーマンスを見せた。そんなシンディがずっと歌いたかった歌は今回の『Memphis Blues』に込められている。最後にもう一度、そんな待望のアルバムに対する彼女自身の発言を引用しておこう。

「私が作りたかったのは、ブルースでありつつも——ハートやソウル、喜びを帯びたような音楽よ」。

別に『Memphis Blues』だけの話ではない。それはそのまま、シンディ・ローパーという人が心を込めて歌ってきた宝石を形容するのに相応しい言葉なんじゃないだろうか。

 

▼シンディ・ローパーの作品を紹介。

左から、94年のベスト盤『Twelve Deadly Cyns...And Then Some』、98年のクリスマス盤『Merry Christmas...Have A Nice Life!』(共にEpic)、日本編集による2009年のリミックス盤『Floor Remixes』(ソニー)

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