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これからの 「音楽」の話のために(2)

カテゴリ : Exotic Grammar

掲載: 2011年01月31日 22:51

更新: 2011年02月01日 17:41

ソース: intoxicate vol.89 (2010年12月20日発行)

text:若林恵

〈個人〉のゆくえ

煎じ詰めていけば、テクノ・エヴァンジェリストたちと、それに猛然と反発する人たちとの違いは、テクノロジーが先か、人間・社会が先か、をめぐる見解の相違なのかもしれない。テクノロジーが変わることで、人間や社会が変わるのか。あるいは人間や社会が変わることで、テクノロジーのありようが変わるのか。音楽好きならば、エレキギターがロックの世界を変えたのか、それともジミヘンが変えたのか、と問うてみてもいいだろう。さあ、どっちだ。

一番慎重な答えをとるならば、「両方」ということになるのだろうが、それでもぼくはどちらかといえば「ジミヘンが変えた」というほうに幾分か傾斜しておきたいと思っている。あるいはワールドカップに即していうなれば、いくら戦術をめぐるテクノロジーが進化したとしても、サッカーの歴史を更新していくのは、イニエスタであり、エジルであり、メッシであり、つまり、とてつもない個人の身体があってのことなのだと思っていたい。少なくとも、そうであるからこそ、ぼくらはそれに熱狂するのではないのか。

同じことはマイケル・サンデル教授についても言えるのかもしれない。この閉塞した時代にあって、彼の講義に多くの日本人が〈白熱〉することができたのは、テクノロジーやシステムが引き起こす歪みを是正し克服していくのは、あくまでも生きた人間の知性や思考にほかならないことを、生き生きと教えてくれたからなのではないだろうか。アリストテレス、カント、ホッブス、ベンサムといった過去の偉人たちの知性が、ぼくらの生きる世界をどういうふうに形作ってきたかを改めて学ぶことは、テクノ・エヴァンジェリストたちがささやきかける信仰にも似た福音よりもはるかに力強く、「世界を変える」イメージをもたらしてくれた。

〈未来〉のゆくえ

話を音楽に戻すなら、iTunesでビートルズが配信されはじめたことなんかよりも、たとえばソマリア出身のカナダ人ラッパーのケイナーンのような唯一無二のストーリーと身体性をもったアーティストが、欧米マーケットからソマリアの難民キャンプの子どもたちまでをも熱狂させた事実にこそ、新しい時代を見たような気がするし、M.I.A.や、SCI-FI版女プリンスとでも言うべきR&Bシンガー、ジャネール・モネイ、ダニエル・ラノワの秘蔵っ子として新バンド、Black Dubの主役を張ったトリキシ・ウィトリーのような新たな才能こそが、2010年の感性に明確なかたちを与えているという実感を、興奮とともに与えてくれた。ジャズファンのために、このリストに、インド人ピアニスト、ヴィジェイ・アイヤーの名前を加えてもいい。「未来」というのなら、ぼくは、彼らの音のなかにこそその兆しをより強く感じることができた。

iPadをめぐる狂騒の際に、さかんに語られたのは「新しいビジネス・スキーム」のことだった。出版業界や音楽業界が新たなデヴァイスやサービスによって再編されるようなことばかりが論じられ、そこで扱う〈中身〉について真剣に語られることはなかった。当時はそのことがずいぶんと不満だったけれど、今になってそれがなぜだかはわかる。結局のところ、音楽で言うならば、デヴァイスやサービスの進化は、音楽の進化とは関係がないのだ。それを商品化し換金するためのシステムが変わっても、アーティストがやるべきことは変わらない。聴いたことのない、フレッシュな音楽をつくること。ピリオド。換金システムが変わることによって、パッケージの仕方や流通の仕方は変わっていったとしても、少なくともぼくがケイナーンやジャネール・モネイに感動するのは、換金システムの精度やパッケージの工夫によってではない。

ぼくらは、そこでサッカーをしている人間を見ているわけであって、3Dテレビを見ているわけではないし、現場を自分の足で歩き回ったルポライターの息づかいを読むのであって、iPadを読むわけではない。3Dテレビで観ようが、iPadで読もうが、退屈なサッカーの試合は退屈だし、凡庸な雑誌記事は凡庸なままだ。映画にせよ、音楽にせよことは同じだ。それにしても、こんな基本的な了解事項を、いまさら確認しなきゃいけないなんて、ぼくらったら一体どれだけそそっかしいのだろう。何をそんなに焦っているのだろう。

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