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バスキアと菊地成孔(2)

カテゴリ : Exotic Grammar

掲載: 2010年12月20日 18:41

更新: 2010年12月20日 19:07

ソース: intoxicate vol.89 (2010年12月20日発行)

text:小沼純一(音楽・文芸批評家/早稲田大学教授)

バスキアが1960年12月22日生まれというのをおもいだすと、個人的には、胸のどこかがうずいてしまう。

自分との年齢の差をはかることが何かを感じたり知ったりすることになるかどうかなどわからないし、およそあてにならないことだとわかってはいるけれども、それでも、あまり年齢の差がない、「同世代」と呼んでもさしつかえないというくらいだと、たとえ場所は違っても、おなじ空気を呼吸していたのではないか、それほど遠くないもろもろの情報は耳にしていただろうというところからも、何らかのちかさ、したしみを感じないでいられない。こうした「世代的共感」とともに、「年齢的共感」というのもあるようにあるのでは、とおもうのだ。

ニューヨークがアート・シーンにおいて熱気がむんむんとしていた70年代から80年代。映画『バスキアのすべて』では、監督自身がおこなったバスキア生前のインタヴューと、友人・知人のことばを交互に配置してゆく。何よりも、バスキア自身が絵を描いている姿がそのまま「映像」となっているのがいい。たしかにふつうのインタヴューといえなくもない。だが、感じられるのは、そのテンポ感がいいのだ。バスキアの身体感覚にあっている、とでも言ったらいいか。

80年代、ニューヨークを中心にあたらしいアートが生まれているというのは耳にしていた。あたらしい具象なんだ、と美術系の友人から聞いていた。それがどういうものなのかしないまま、いきなり、横尾忠則の「絵画宣言」というような出来事に遭遇した。横尾忠則って画家じゃなかったの?となどとの疑問は封じておこう。商業デザイナーではなく、自発的に作品をつくることこそ、この人物が見出した新たなる自己であり、合衆国の「ニューペインティング」のありようだったと言えなくもない。

ニューヨークには最先端のアートがあった。アクション・ペインティングがあり、抽象表現主義があり、コンセプチュアル・アートがあり、ミニマリズムがあった。そこに、いきなり、具象である。しかもグラフィティのようだ。賛否両論あったのはごく自然なことだった。ただ、この「ニューペインティング」には、「現代」の、「美術/アート」にはない、ないような、アツさがあった。

たとえば、伊東順二は『現在美術』(1985年/PARCO出版)において、バスキアについてこう書いている──

「バスキアの絵の特色は、何と言っても極端にカリカチュアライズされた人間の姿にある。独特の色彩と画面にこすりつけられるように書きつけられた意味的連鎖のまるでない文字の中で、彼らは、これまでの絵画には見られなかったほどのパワーを秘めて存在している。そのパワーは都市の中で圧し潰される者の怒りであり、それよりももっと存在の核心に触れるリビドー的なものから生まれているように感じられる。とにかく、バスキアの絵はあらゆるスタイルから離れて孤高であり、現代都市から生まれた最初のメッセージと見ることもできるだろう」

あらためて、バスキアにかぎらず、『現在美術』に掲載されている多くの図版をながめ、あるいはニューペインティングの数々の作品をおもいおこすとき、そこにある「ひと」のあらわれについて無視したりなおざりにしておくわけにはいかない。あらたな、都市という文脈におかれた「ひと」、だろうか。そんなふうに考えてみると、70年代から80年代のニューヨークはヒップホップが生まれた時代であり、こちらもまた、レコードに録音された音を再生=変容させつつ、うたではない声、ライムをラップするというかたちで、都市環境におけるひと、そこでの音・音楽のさまを体現したものといえる(そうだ、アフリカ・バンバータが生まれたのは1957年、バスキアとは3つしか違わない)。テクノロジーと身体ということについて80年代、アートのありようと同時代、そして未来を透視=投資してみせたのは、伊東順二とおなじ姓で、それなりに紛らわしかった(菊地成孔が敬意を表する)伊藤俊治であった。

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