フェスティバル/トーキョー10(2)
カテゴリ : Exotic Grammar
掲載: 2010年10月08日 16:29
更新: 2010年10月08日 16:58
ソース: intoxicate vol.88 (2010年10月10日発行)
text:小沼純一(文芸・音楽批評家/早稲田大学教授)
おもいおこせば、かつて、80年代におこなわれていたワークショップにおいても、参加している人たちは、何かの〈かたち〉を教えられるわけではなかった。身体へのさまざまな意識のしかた、ことばによる〈イメージ〉が、身体にどうかかわり、うごきを生みだしていくのかを探り、体験することこそ、求められていたのだった。
話をもとに戻すと、ノイズによる前半と、イザイの生演奏とが対比される『Obsession』において、勅使川原三郎は、音・音楽が身体とどうかかわるのかを、ひじょうに明瞭にうちだしてきた。それは、身体のうごき、うごきのヴォキャブラリーをのみみていてはけっして解けないものだった。つまり、ヴォキャブラリーの豊かさやヴァリエーションではなく、音・音楽との関係性のなかで、それらがどう生かされ、〈かたち〉をあらわしつつ、〈かたち〉を超えるかがあったのだ。
イザイの6曲ある《無伴奏ヴァイオリン・ソナタ》から、抜粋しながら構成されるステージ。音楽ファンであっても、かならずしも愛好しているとはかぎらないし、はじめて耳にするなら、ヴァイオリンというひとつの楽器、高音域の楽器で、ほかに共演する音もなく紡ぎだされる音楽は、わかりやすい、とは言えない音楽。それでいながら、いや、逆にそうだからこそ、四本の弦に弓をのせ、横に引き、摩擦によって音が生まれるこの楽器の身体性、なまなましさが、そのまま空気を伝って、ダンサーに〈ひび〉き、音楽のフレーズから和音、音色、そのどこかしら勅使川原三郎に〈ひっかか〉り、そのたびごとに〈感じ〉させることどもを、惹起させたのではなかったか。
『SKINNERS―揮発するものへ捧げる』
演出・振付・美術・照明:勅使川原三郎
11/27〜11/28
©Bengt Wanselius
『Obsession』は、くりかえしになるが、2009年5月にフランスで初演され、1年後に東京で演じられた。新作『SKINNERS — 揮発するものへ捧げる』は、対して、東京での初演、発信となる。世界にむけての発信であると同時に、発進であり発振と言い換えてもいいだろう。
ここで勅使川原三郎が音楽としてとりあげるのは、リゲティの《エチュード》。そして、まったく無名な若手によるノイズ。
『Obsession』がイザイによる〈ヴァイオリン・ソロ〉だったのに対し、新作はリゲティの、超絶技巧のピアノ作品である。ジェルジ・リゲティは、1985年から2001年まで、全3集18曲からなる《エチュード》を書きついだ。このハンガリー生まれのユダヤ系の作曲家、いわゆる〈第二次世界大戦後〉の〈ヨーロッパ前衛〉として知られているが、なかなかどうして、音楽の豊かさはそうした一時代のスタイルやながれに囲いきれるものではない。もともとピアノの作品はあまり書いていなかったリゲティだったが、1923年生まれゆえに還暦を過ぎて、《エチュード》にとりかかったことになる。
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