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特集

TRICKY

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2010年10月06日 18:02

ソース: bounce 325号 (2010年9月25日発行)

文/栗原 聰

 

「俺の音楽にいちばん影響を与えたのがいろんな人種や文化に触れてきたことだと思ったからだ」――2年ぶりの新作のタイトルを、多様な人種・文化、混血という意味の『Mixed Race』としたことについてトリッキーはそう説明する。

「俺の家の食卓に座ってみるとわかるよ。いろんな肌の色をした人間がいるんだ。そういう環境に育ったことで、オープンな人間になれたと思う。俺は白人と黒人、どちらの社会の人間でもあるんだ」。

 

黒でも白でもなく

2年前、久しぶりに届けられた前作は『Knowle West Boy』というタイトルだった。ノウル・ウェスト――イングランド西部の港町ブリストルの一地区。この街で、トリッキーことエイドリアン・サウスは育った。

「黒人の俺はそこの白人ゲットーで育ったから、白人が皆無のジャマイカ人クラブにも、自分以外に黒人がいない白人のクラブにも行くことができた。それが極めて特殊だってことに当時はまったく気付いていなかったけどね」。

ジャマイカ系移民の父親とアフリカ/ウェールズの血が混じる母親との間に68年に生まれたエイドリアンだが、両親の記憶はほとんどないという。父親は蒸発し、母はエイドリアンが4歳のときに自殺。主にギャング業を営む叔父のもとで育った。一通りの悪事を働き、一言でいえば不良だったわけだが、警察沙汰になることは少なかったという。悪賢い少年はトリッキー・キッドと呼ばれるようになる。

「育ての親である叔父のケンは白人だけど、俺にブラック・ミュージックを教えた張本人なんだ。アル・グリーンにサム・クック……レジェンドと言われるアーティストの音楽が常にかかっていたよ。本当にいろんなジャンルの音楽を聴いて育った。俺の音楽を一括りにできない原因もそこにあると思う。ブラックでもホワイトでもなく、女っぽくもなく男っぽくもない……良い意味でね」。

最初のヒーローはスペシャルズ。土地柄、多様な音楽が混在し、ロンドンよりも早くヒップホップが入ってきたといわれるブリストル。ソウルやニューウェイヴ、レゲエ、ジャズ、そしてヒップホップに衝撃を受ける。

「12歳になって、従兄弟のマーク(・ポーター)とマイルス(DJミロとして知られるマイルス・ジョンソン)のパーティーにも顔を出すようになった。2人はパーラメントからT・レックスに至るまで、ありとあらゆるジャンルの音楽をプレイしていたよ」。

 

 

クラブでもナンパやクスリで煙たがられていたというトリッキー。「小さい街だから何らかの交流はあるんだ」と以前ロニ・サイズも語っていたが、そこにはマーク・スチュワートをはじめとする先導者はもちろん、後に注目を集めるVIPたちが居合わせていた。そのマーク・スチュワートの勧めもあって、トリッキーはマイクを握るようになる。スミス&マイティのステージに立ち、フリンやクラストらがいたフレッシュ4とも一時関わり、DJミロやダディG、ネリー・フーパーらの結成したワイルド・バンチと活動を共にしていく。そのワイルド・バンチから発展したマッシヴ・アタック『Blue Lines』にはトリッキーも参加し、その名盤に残した毒々しいヴォーカルも広く存在を知られることになった。ほぼ同時期の91年春にリリースされたチャリティー企画『The Hard Sell』には初のソロ作品が記録されている。“Nothing's Clear”がそれで、ジェフ・バーロウ(ポーティスヘッド)と制作したトラックだった。

その後のトリッキーがソロ活動を本格化させるにあたっては、彼女が16歳の時にナンパしたという、マルティナ・トップリー・バードの存在が欠かせない。学校のジャズ・バンドでヴォーカルを務めた経験のあるマルティナとは公私共にパートナーとなり(愛娘も生まれている)、“Aftermath”を制作。当初はマッシヴ・アタックに持ちかけるものの相手にされず、ロンドンへ拠点を移して93年に自主リリース。それが4th &ブロードウェイ/アイランドの目に留まり、同年に再リリースされている。一方、94年秋の『Protection』を最後にトリッキーとマッシヴ・アタックとは長く疎遠になっていった。ただ、ダディGも最近トリッキーとのわだかまりが解けたことを語っていたが、「マッシヴ・アタックとコラボするって噂は本当さ」との言葉通り、〈古巣〉とのコラボにトリッキー自身もやりがいを感じているようだ。

 

 

異端児とポップスター

『Protection』の直前にはポーティスヘッド『Dummy』もリリースされ、〈ブリストル〉があたかも音楽ジャンルであるかのようにフィーチャーされはじめた。幻想的でサイケデリックなハイブリッド・サウンドは確かにどこか共通項を見い出せるもので、トリップ・ホップやダウンテンポといった曖昧な呼称が生まれたのもこのころ。その決定打となったのがトリッキーのアルバムだった。

95年春、亡き母親の名前を掲げたファースト・アルバム『Maxinquaye』がリリースされる。同作は全英チャートでも最高3位をマークするなど成功を収め、各メディアからも称賛の嵐。NMEとMelody Maker両誌では年間ベスト・アルバムに選ばれ、マーキュリー・プライズにもノミネートされる(受賞はポーティスヘッド)という、昨年2枚組のデラックス盤として復刻されたのも頷ける名盤となった。

『Maxinquaye』の衝撃も覚めやらぬなか、自身のダーバン・ポイズンからスターヴィング・ソウルズという別名義でEPをリリースしたかと思えば、96年には早くも新作が届けられる。しかし、トリッキー名義でリリースが続くことを嫌った会社の方針で、ニアリー・ゴッドなる名義で発表。ゴシップでも賑わせたビョークやヒーローである元スペシャルズのテリー・ホールらが参加したコラボ作品となった。ちなみに、デーモン・アルバーンとの共作はお蔵入りとなったが、その後の彼の活動を思えば、導火線に火を点けたことは間違いないだろう――異端児は次第にポップスターとして認知され、メディアの格好の標的となって音楽以外の話題もネタにされるようになる。さまざまな誤解に嫌気がさしていたことをよく吐露していた。

このころトリッキーはNYへ拠点を移している。パブリック・エナミーのカヴァーやRZA率いるグレイヴディガズとの共作などですでにヒップホップへの愛情は露わにしていたが、無名のアンダーグラウンド勢とのEP『Grassroots』を突如リリース。そして同じ96年秋には『Pre-Millennium Tension』を、「フィフス・エレメント」でスクリーンにも登場した後の98年には代表作の一つとなる『Angels With Dirty Faces』をそれぞれ発表。また、サントラ『Half Baked』では旧友DJミロと共作。当時ミロの作品も噂されたダーバン・ポイズンからは、クロード・ウィリアムス(元ワイルド・バンチ)らも参加した従兄弟のマークによるベイビー・ナンブースなどもリリースされた。

99年、正式な名義は〈トリッキー・ウィズ・DJマグス&グリース〉となる『Juxtapose』を最後に、幹部の人種差別発言に反発した曲を発表するなど何かといざこざのあったアイランドを離れている。エピタフ傘下のアンタイからEP『Mission Accomplished』を出した後、さらにハリウッドとサイン。ビッグネームを迎えた〈ポップ版ニアリー・ゴッド〉とでも言える『Blowback』 を2001年に発表。ダーバン・ポイズンもサポートしていた業界の要人クリス・ブラックウェルと新たにブラウン・パンクを設立し、2003年にはその第1 弾として自身の『Vulnerable』をリリース。

 

 

 

昔の自分のアルバムなんてクズだ

その後、ブラウン・パンクとは別に自身のリリース元を探していたところ、ドミノへと行き着き、『Knowle West Boy』を発表。同作をサウス・ラッカス・クルーがダンスホール/ダブステップ風味に調理した『Tricky Meets South Rakkas Crew』も話題となった。そしてこの秋、ニアリー・ゴッドや『Juxtapose』もカウントすると9作目となる新作『Mixed Race』がリリースされたばかりだ。「昔のアルバムなんていま聴くとクズ、酷くて聴けたもんじゃない」――過去を良く言わないのはいつものことだが、「そうでもないぜ」とでも言いたくなる。

「いまの自分には理解不能、ああいう混沌とした音楽はもうやりたくない。そう思うのもたぶん、いまは自分の気持ちがクリアだからなんだと思う。自分のやりたいことがハッキリとしている。新作ではあえてダイレクトで、挑戦的であろうとした。いままでのなかでいちばん作りやすかったアルバムだな」。

 『Knowle West Boy』から『Mixed Race』へ──トリッキーはまた新たなレヴェルへとグイっとのし上がった感がある。数多い共演をはじめ、ルーツが見え隠れする数々のカヴァーやサンプリング、さらにはエルヴィス・コステロからRIP SLYMEに至る多くのリミックス・ワークなど、一見守備範囲の広さに驚かされるが、トリッキーというハブのおかげで自然とリンクしてしまうから不思議 だ。初期から作品ごとにヒップホップやパンク、エレクトロニックにレゲエやダブ、エスニックなど多様な成分を抽出できるが(ブリストルらしい)、まさに昔 から〈Mixed Race〉な感性は存在していたわけだ。しかし、そんな分析も二の次でよくなるほど、〈トリッキー〉という個性が際立つものばかり。15年来、そんな印象はほぼ変わりはない。一人の人間として、ここまで魅力的で刮目に値するアーティストもそうはいないんじゃないだろうか。だからか、カリスマと呼んでも違和感はない。

 

▼関連作を一部紹介。

左から、ニアリー・ゴッドの96年作『Nearly God』(Island)、96年のEP『Tricky Presents Grassroots』(FFRR)

 

▼トリッキーの作品に参加したアーティストの作品を一部紹介。

左から、シンディ・ローパーの2010年作『Memphis Blues』(Downtown)、アラニス・モリセットの2002年作『Under Rug Swept』(Maverick)、ステファニー・マッケイの2008年作『Tell It Like It Is』(Muthas Of Invention)

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