こんにちは、ゲスト

ショッピングカート

特集

commmons: schola──「音楽の学校」夏期特別講座(4)

カテゴリ : Exotic Grammar

掲載: 2010年10月04日 19:03

更新: 2010年10月05日 16:04

ソース: intoxicate vol.87(2010/8/20発行)

text:小沼純一(早稲田大学教授・音楽評論家)

坂本龍一はベートーヴェンのピアノ・ソナタ第1番や第21番(ヴァルトシュタイン)の冒頭を弾きくらべてみせる。ハイドンやモーツァルトといった〈古典派〉様式の延長上にある第1番に対し、第21番の低音域での和音の連打。これが如何に革新的だったか。もう一度弾いてみて、「これがテーマかとおもわれたにちがいない。だって、これ、伴奏じゃないか!」

あるいは、坂本龍一の〈アルペッジョ〉嫌い、の暴露。こういうのは、ライヴだからこそのおもしろさがある。アルペッジョ=分散和音なんて、何もしていないのとおなじじゃないか。怠慢だ。そう言いながら、しっかりと《ピアノ協奏曲第5番「皇帝」》の部分を弾いてしまい、ピアノ・ソナタ第29番(ハンマークラヴィーア)が「ダメ」であるかを語る。

さらに、ベートーヴェンにおける執拗な終止形への言及。気のあった仲間うちが目をかわしあいながら、じゃ、っ、じゃ、っ、とカデンツ(終止形)を何度もやっていく「バンド感覚」なんじゃないかとの小沼のコメント。

まだまだ話題はつぎつぎにでたけれど、やはりベートーヴェンのもっている意味は、バレンボイムが中東の音楽家たちを集め、パレスチナ自治区のラマラでコンサートを敢行した、そこでとりあげられたのがモーツァルト《協奏交響曲》であり、ベートーヴェン《交響曲第5番》であったことにあらわれているのではなかろうか、と収斂する。モーツァルト《協奏交響曲》に、異なった楽器による共存というテーマ性があるとすれば、ベートーヴェンは、楽音によって構築されてゆく音楽、その時間とともにたちあがりきえてゆく建築と、それによって喚起されるストーリーと、演奏者も聴き手もぐっとひとつにまとめてしまう力をもっている──。ここにもってくる音楽をほかに想定できるだろうか?

実際に『ベートーヴェン』の巻で何が収録されることになるかはお楽しみだけれども、わかりやすかったり親しみやすかったりするベートーヴェンというよりも──充分ポピュラーなものをとりあげてはいるものの──、ひじょうにハードでコアなベートーヴェン像が提示されるのは確かだろう。

もうひとつ、最後に、『ベートーヴェン』に先だってリリースされる、『古典派』についても少しふれておこう。

『ベートーヴェン』が1つの巻になるのに、〈モーツァルト〉がそうならないのはなぜ?との疑問もあるかもしれない。だが、モーツァルトの大きさを示すためには、おなじ時代の、べつの作曲家の作品もならべてみることで、〈天才〉を際立たせることができるのだ。とりあげられるのは名曲の多いモーツァルトのごくごく一部だけれども、先のベートーヴェン/ヘーゲルにおけるフランス革命ではないけれど、だんだん社会が変わってくるなか、職人や雇われ人としての音楽家が自らの表現をするようになってゆく、そのプロセスをモーツァルトへと重ねてみることができるだろう。つまりは、わたしたちが生きている〈現在〉へと、である。

J.S.バッハの時代から、息子たちの時代への変化をC.P.E.バッハを、ハイドンを、グルックをとりあげつつ、本命モーツァルトへ。

──例をあげておこう。

《トルコ行進曲》をとりあげながら、作曲家と演奏家がまだはっきりと分離せず、多分に即興もしていたことを踏まえて選ばれたアンドレアス・シュタイアーの演奏。オスマン・トルコによるウィーン包囲の記憶も交差させているということも。

「白鳥の歌」たる《クラリネット五重奏》は、往年の名演として知られるレオポルド・ウラッハのクラリネットで。

《コジ・ファン・トゥッテ》における、各人が異なった内容を語りながら、音楽だからこそ調和がとれる、シュヴァルツコップとルードヴィッヒが加わっている驚異的な六重唱。

scholaのしごとをしながら、〈わたしたち〉は、けっして冗談でも誇張でもなく、あらためて音楽の多様さと奥深さと不思議とを、再・発見、再々発見させていただいている。そのことが伝わるといいのだが。

インタビュー