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特集

SLUM VILLAGE

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2010年08月13日 13:13

更新: 2010年08月13日 13:15

ソース: bounce 323号 (2010年7月25日発行)

文/出嶌孝次

 

 

〈俺はグループから誰一人追い出したりはしない〉〈スラム・ヴィレッジに新しいメンバーは必要ない〉〈これがスラム・ヴィレッジのラスト・アルバムだ……〉――実に5年ぶりとなるニュー・アルバム『Villa Manifesto』のリリースをおよそ1か月後に控えた6月29日、そうツイートしたのはT3。ただひとり残されたスラム・ヴィレッジ(以下SV)のオリジナル・メンバーである。これに対し、もうひとりのメンバーであるエルザイは困惑を表明しているという。いったい何が起こっているのか。そもそもこのページ自体がグループの復活を祝って企画されているのだから勘弁してほしいものである(それはまあいいや)。

しかしながら、よく考えると20年に渡って常にアクシデントやハプニングの連続――少なくともデビュー以降の14年間はそうだろう――で、およそ安定期を迎えたことがなさそうに見えたグループのキャリアとしては、これが真実であっても妙に〈らしい〉展開なのかもしれない。実際のところ本稿の執筆時点でオフィシャルな発表は何もないのだから、あれこれ気を揉むのも早計であろう。ここでは常に形を変えながら前進せざるを得なかった彼らのキャリアを再確認しておきたい。

 

ズバ抜けていた才能

 

 

率直に言って、ヒップホップ・ファンを除けばSVの知名度はさほど高くないだろう。名前が知られていたとしても、多くの人にとっては〈J・ディラがいたグループだよね〉という程度の認識でもしょうがない。間違いじゃない。とはいえ、彼らが台風の目となって動かしてきたものがいかに重要かは、その知名度やセールスと比べることもできないほどだ。

始まりは74年のデトロイト。後に“Conant Gardens”で歌われるように、ロウワー・イーストサイドに位置するコナントガーデンズ地区にて、後にJ・ディラと呼ばれることになるジェイムズ・デヴィッド・ヤンシーが生まれたのだ。生まれてすぐの頃からジャズを聴かないと眠らなかったという逸話もある彼は、両親が聴いていたさまざまなレコードに囲まれて育ち、やがてはカセット・デッキを分解したり、再生/一時停止ボタンを用いてビートを作ったりしていたそうで、少年時代からあきらかに〈何か〉を持っている子供だったのだろう。なお、この頃からディラとつるんでいたのは後にデュオを組む幼馴染みのフランクとダンクで、当初はフランクとディラが揃ってDJを始めたものの、すぐにディラはライムも書くようになったそうだ。

そんなディラがSVの仲間たちと出会ったのは88年のことらしい。同じ中学校でラップをやっていたT3が祖母の家の地下室でラップ・バトルを催し、相棒のバーティン(当時はスキャンダラスT)や、当時MCシルクと名乗っていたディラなどのMCが招かれたのだ。これを契機に意気投合した彼らは周囲の仲間も集めてグループの形成に至り、89年頃にセネポッド(名称はdopenessを逆読みしたもの)なるユニットが立ち上がったとされている。メンバーはT3とバーティン、ディラの3MCに加え、DJのワジード、そしてダンサーのキューDだった。

セネポッドを取り巻くキッズたちの間ではラップやDJが盛んで、先述のフランク&ダンクや、前にバーティンとグループを組んでいた友人のプルーフ、その友人の白人少年マーシャル・マザーズ、あるいはキッド・ロックなども挙ってラップにのめり込んでいったのだ。ただ、その当時はデトロイトのヒップホップ・シーンは未成熟なものだった。何しろ、NWAが猛威を振るったLA産のヒップホップすら、本場のNYからすれば二番煎じと見なされていた時代なのだ。91年に入ってグループは3MC編成のSVへと発展し、この頃からディラは本名をもじってジェイ・ディーと名乗るようになっている。翌92年には地元の名プロデューサーだったRJ・ライス(元RJ'sレイテスト・アライヴァル)にフックアップされ、ジェイ・ディーは彼のレーベルと契約を結ぶに至った。そこで訪れたさらなる浮上のチャンスこそ、アンプ・フィドラーとの出会いである。

同時期のデトロイト音楽といえば、マッド・マイクの結成したアンダーグラウンド・レジスタンスが〈テクノ〉を確立してヨーロッパで人気を博していたわけだが、そのマイクがミュージシャンとして腕を磨いたのはジョージ・クリントンの率いるPファンク軍団であり、アンプもまたその腕利き集団で研鑽を積み、地元では著名なミュージシャンに成り上がっていたのだ。彼のスタジオには多くのアーティストが出入りしており、一方では地元の若い才能が集って楽器の奏法や機材の扱い方をアンプに教わっていたのだという。そして、そんな〈アンプ学校〉でズバ抜けた能力を見せたのもジェイ・ディーだった。みるみる習熟したジェイ・ディーのトラックを、アンプは自分の出会った〈大物〉たちに聴かせるようになる。なかでもトライブ・コールド・クエスト(以下ATCQ)の活動で時代の寵児となっていたQ・ティップの反応は大きかった。

 

度重なる不遇

 

 

ジェイ・ディーのビートはQ・ティップを経由して業界内を駆け巡り、最初の成果としてファーサイドの『Labcabincalifornia』(95年)が世に出された。名声と大金を掴んでデトロイトに凱旋してきた彼は、同時期にファット・キャットと組んだファースト・ダウンとしてデビューし、プルーフの率いる5エレメンツのプロデュースも手掛けている。そして、96年に入ると、ジェイ・ディーの名はQ・ティップの組んだ制作チーム=ウマーの一員としてさらなる脚光を浴び、特にATCQ『Beats, Rhymes And Life』に彼の提供したビートは、テクノ風の浮遊感とクールネスを備えた音像が賛否両論を呼ぶほど話題となった。他にもデ・ラ・ソウルやバスタ・ライムズを手掛け、早くもジェイ・ディーは人気プロデューサーとしての立場を築き上げたのだ。ただ、一方で母体となるSVの活動は停滞しつつあった。

そんな状況に業を煮やしてか、それまで散発された楽曲をまとめる格好でSVのファースト・アルバム『Fantastic Vol. 1』がカセットテープでリリースされる(公式なCD化は2005年)。ブートなどの形で広まった同作の評判を受け、いよいよ〈あのジェイ・ディーがいるグループ〉もいよいよメジャー・デビューか……と思われた。が、新作『Fantastic Vol. 2』の制作が進む一方でリリース体制はまとまらず、エレクトラ傘下に設立されたQ・ティップのレーベル=ミュージアム・ミュージックはレーベル自体が消滅。続いて契約したA&Mではグループ内の組織替えに伴ってインタースコープへ移籍させられ、やっとシングル“Get Dis Money”(99年)を出すものの契約を切られる。皮肉にもその間の数年でジェイ・ディーは、ルーツやコモン、エリカ・バドゥのプロデューサーとしてますます多忙になっていた。最終的にRJ・ライスの手引きでキャピトルと契約したSVは、メジャーへの再挑戦に心血を注ぐべく、完成しながらも延期を重ねていた『Fantastic Vol. 2』をひとまずグッドヴァイブから出すことにする。が、2000年にようやく世に出た同作は、結果的にジェイ・ディーがメンバーとしてSVに関わった最後の作品となってしまった。リリース・ツアーを欠席しまくってスタジオ仕事に励んだ彼は、J・ディラと改名してソロ作『Welcome 2 Detroit』を発表した2001年、ついにグループを脱退する。

 

ディラのいないグループ

 

が、ディラのいないグループが体を成すのか、という外野の声を尻目に、SVは新メンバーにエルザイを迎えて活動の継続を選んだ。エルザイはブレックファスト・クラブなるユニットでドゥウェレやタラーチ、ビッグ・トーンと活動していた少し後ろの世代のラッパーで、ディラの“Come Get It”にも抜擢されていたからすでにグループとしても馴染みの存在だったのだろう。フレッシュに新生した彼らは、2002年に初のメジャー・アルバムでもある『Trinity(Past, Present And Future)』をリリース。脱退したディラのビートも数曲収めつつ、ここではワジードやブラック・ミルク、RJ・ライスの愛息であるヤングRJら地元の新進クリエイターの活躍も目覚ましかった。そのドゥウェレをフィーチャーした“Tainted”は彼ららしからぬ(?)シングル・ヒットを記録してもいる。アルバムもR&Bチャートで5位/全米20位という好成績を上げ、結果的にSVがディラなしで成り立つどころか、デトロイト・シーンの親玉としての存在感を大きく打ち出すことにも成功したのだ。

それでも混乱は続く。ディラが去った頃からドラッグに溺れていったというバーティンが、被害妄想などを伴う深刻な統合失調症に苦しみ、2003年に戦線離脱を余儀なくされてしまったのだ。一説にはグループ内で疎外感を抱いていたというが、真相はわからない。

ともかく、T3とエルザイのふたりがジャケを飾って登場した4作目『Detroit Deli(A Taste Of Detroit)』(2004年)では、当時まだ20歳のコンビだったBR・ガンナ(先述したヤングRJとブラック・ミルクのコンビ)が大部分を手掛けて往年のムードを更新し、『The Collage Dropout』が大ブレイク中だったカニエ・ウェストの手によるシングル“Selfish”もヒットした。また、それまでのSVは(繊細な音の印象に基づく日本でのイメージに反して)ナスティーで下世話なテーマの曲ばかりをやっていたのが、ここではエルザイの意見を容れてシリアスな社会派ソングやシングル・マザーの応援歌などコンシャス寄りな楽曲にもトライ。すでにLAに引っ越して持病の狼瘡と闘っていたディラも唯一“Do You”のプロデュースを手掛け、意味深な表題の“Reunion”にはラッパーとしても登場している。

2MC+BR・ガンナという体制では翌2005年に早くももう一枚、初めてディラのまったく絡んでいないアルバム『Slum Village』がリリースされ、生まれ変わったSVは〈ディラがいたグループ〉ではなくシンプルにSVとしてゆっくりシーンに浸透していくはずだった。が、そんな彼らを悲報が見舞ったのは、年を跨いだ2006年2月10日……32歳の誕生日にストーンズ・スロウから『Donuts』をリリースした3日後、闘病の末にディラが息を引き取ったのだ。同年には古くから切磋琢磨してきたD12のプルーフも急逝し、SVは活動休止期間に入ることになる。

エルザイがソロ作『Preface』(2008年)を発表し、ハーモニック313からDJスピナ、DJ Mitsu the Beatsまで多方面で客演を展開していく反面、SVとしての動きはほとんど途絶えて見えたものの、その間にも水面下ではいろいろな動きがあったと思われる。T3とエルザイはディラの実弟であるイラ・Jを(準メンバー的に)加入させ、社会復帰したバーティンを呼び戻すことによってもう一度SVの名前を輝かせようとしていたのだ。

 

 

そして……これで最後なのか?

 

 

2009年に入るとSVは4人体制で久々のレコーディングに取り組んでいることを発表し、アルバムからの先行EPもデジタル・リリースされている。が、その年の8月1日にバーティンが薬物中毒で亡くなるというアクシデントが起こり、彼らはまたしてもメンバーの一人を失ってしまった。

そんなこんなを経て制作されてきた『Villa Manifesto』だからして、作中には復帰作としての勢いとリユニオン・アルバム的な色合い、そして亡くなったメンバーの追悼的な色合いが入り交じっている。ヤングRJとT3が全体の舵を取り、ATCQのファイフやデ・ラ・ソウル、クェストラヴといった縁のあるゲスト陣も招聘。ディラのビート、彼とバーティンのラップ、イラ・Jの登場もあって、メモリアルな意味合いを排しても充実した内容と言えるし、この波瀾万丈の果てに何が起ころうとも、その価値が揺らぐことはないだろう。

 

▼スラム・ヴィレッジの作品。

左から、T3を中心とした2002年のコンピ『Dirty District』(Barak/Sequence)、2005年のストリート・アルバム『Prequel To A Classic』(Barak)、2000年作の10周年記念盤『Fantastic Volume 2.0』(Donut Boy/Barak)

 

▼J・ディラのソロ作を一部紹介。

左から、2001年作『Welcome 2 Detroit』(BBE)、2003年のEPを拡張した編集盤『Ruff Draft』、2006年作『Donuts』(共にStones Throw)、2006年作『The Shining』(BBE)

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