パット・メセニー 『オーケストリオン』~テクノロジーとジャズの作曲至上主義~(2)
カテゴリ : Exotic Grammar
掲載: 2010年05月10日 11:40
更新: 2010年05月10日 12:20
ソース: intoxicate vol.85 (2010年4月20日発行)
text:三輪眞弘
ピアノの演奏を聴くために、「人間がそうするように」ピアノの鍵盤をたたく装置を発明するのではなく、現実空間における現象としての「空気振動」を記録再生する装置の発明。それはすべての自動演奏楽器が、紙ロールなどに刻まれたシークエンスデータを、用意された楽器によってプレイバックするものであったのに対し、オーディオ信号の録再生という異次元への跳躍とも言える大事件だった。もちろん初期のレコードは音量音質はもとより、様々な点で自動演奏楽器と比べて見劣りするものだったにしても、それでもなお、レコードが、人声を含む、音源=楽器(=物体)にまったく依存しない「ユニバーサルな音楽再生装置」という圧倒的な可能性を秘めていたことは言うまでもない。もちろんここでの「ユニバーサル」の意味は、もはやその空気振動が「音楽かどうかですら機械にとっては関係ない」ということだが、にもかかわらず、レコードが自動演奏楽器、例えばオーケストリオンに「比較されるものとして」人々の前に現れたということは興味深い。
どれほど複雑精妙なからくりによるものだったとしてもオーケストリオンが、人間の演奏と同様に、「現実世界の出来事」として奏でられるものであったのに対し、レコードの本質は切り出された過去の「時間」を現前させる「亡霊的」作用を伴なうまったく異質なものなのである。それは、やがてレコードが電気を使って再生されるようになり、電波によって放送され、CDとなり、ネット上のデジタルデータとして供給されるようになった今でも変わることはない。
20世紀初期、生まれたばかりのジャズは、すでに高度な進化を遂げていたオーケストリオンという「あだ花」の重要なレパートリーとして大陸を超えて世界中に伝播しかけたものの、その後はもっぱらこのレコードがその進化を引き継いだわけだ。ところが、現代ポスト・ジャズの第一人者(という定評があるのかは知らないが、ごく個人的に)パット・メセニーが、このオーケストリオンを現代に蘇らせ、新しいCDを出したという…ここまで読んでくれた読者には、それがいかに倒錯した試みであるかはもはや言うまでもないだろう。
ぼくらは現代に蘇った「オーケストリオン」という機械式再生装置(のカラオケによるパット・メセニーの「ひとりオーケストラ」)をCD再生装置を使って聴くのである。しかし、もちろん彼は狂っているわけではない。特に、楽器という物体が鳴り響かせる音と録音されたものの再生音との違いを、品質としてではなく、その本質においてミュージシャンならではの感性ではっきりと峻別しており、まさにその点がこの現代版オーケストリオン・プロジェクトのモチベーションとなっているようだ。「アコースティック楽器のパワーをしっかりと持った曲を書きたい」と彼は言う。さらに、オーケストリオンという前世紀の「あだ花」(<そうは言っていないが)を現代に蘇らせる時は「今」なのだと。その背景には、コンピュータ、すなわちデジタル信号処理のスピードがもはやタイミングにシビアな音楽においてでさえ問題にならないほど上がっていることももちろんあるのだが、さらに近年のロボティクスにおける機械機構やセンシングなどの技術が目をみはるような進歩を遂げている事実もあるのだろう。