サニーデイ・サービス
まだ学生だった曽我部恵一(ヴォーカル/ギター)と田中貴(ベース)が中心となってサニーデイ・サービスをスタートさせたのは92年のことだった。この年の前後は、東京で暮らす若者たちにとってある種の過渡期でもあった。ちょっと気の利いたところに行けば入手できたフリーペーパー「Press Cool Resistance」のスタッフは翌93年に雑誌「バァフアウト!」を創刊。下北沢のクラブ〈ZOO〉が〈SLITS〉に変わるか変わらないかくらい。そうそう、クラブといえば学生やショップ店員などいわゆる素人さん主宰のイヴェントがさまざまなハコで開催されはじめたのもこの頃。身内のパーティーとあなどるなかれ、数百人単位の動員を誇るイヴェントはざらにあったし、そのなかからどれだけのイヴェント・オーガナイザー、DJ、ミュージシャンがプロになったか想像もつかない。既存の権威に頼らないで自分たちでやっちゃおうぜ!と、目に見えて多くの若者たちが新しいことを始め出した季節だったのだ。
91年に解散したフリッパーズ・ギターは、90年前後に現れた〈東京のセックス・ピストルズ〉だった。その活動に触発されて多くのバンドが組まれたという点で。しかも文科系の。大学の軽音楽部で愚にもつかないサザンのコピー(でもテク的には巧い)にいそしむ先輩たちを尻目に、レコードばっかり買って毎週末クラブでへべれけになってるギターの下手な若者たちがバンドを組む理由を与えてくれたのが、フリッパーズ・ギターだったのだ。サニーデイ・サービスもまた、フリッパーズ・フォロワー=ダンサーを擁する〈インディー・ロック+ダンス〉の落とし子バンド、のひとつでしかなかった。ドラムスに元エレクトリック・グラス・バルーンの丸山晴茂が加わり、95年4月にアルバム『若者たち』がリリースされるまでは。
『東京』の誕生、そして急進化/加速する情熱
永島慎二のコミックと同じタイトル、同じムードを持つそのアルバムは、Macならではのデザインが施された新譜群のなかであり得ないほどの異彩を放っていた。言ってしまえば、圧倒的に貧乏臭かったのだ。しかし、きちんと中の音楽に触れ、その意味に気がついた少なからぬCDショップのスタッフによって、数は多くないものの愛情のこもったPOPを添えて陳列され、視聴機にも入れられたのだった。そうすると今度は、勘の良い若者たちがしげしげとPOPを眺めながらおそるおそる視聴機のヘッドフォンを装着する。彼らがアルバムを手に取ってレジに並ぶのに、長い時間は必要なかった。サニーデイとの幸福な出会いをCD店で果たした同世代の若者の一人に、後にサニーデイ・サービスの世界観をアートワークで広げたデザイナー、小田島等がいたことも忘れずに付け加えておきたい。
しかし、この作品に対する評価を総合すると〈賛否両論〉であった。認めるか、認めないか。その音楽を形容するのに、主に年長者の口からはあたりまえのように〈はっぴいえんど〉の名が挙がった。一聴してオールドタイミーなサウンドと〈です/ます〉調の歌詞──しかしその一方で、性急な演奏と拙いグルーヴ感には90年代産ならではの熱があった。歌詞にしても、〈どんな言葉で歌われているか〉ではなく〈何が歌われているか〉というと、現代の若者ならではの心象風景が描かれている。ちょっと街に出ると、新譜を探す以上の熱心さで70年代の隠れた名盤を発掘する90年代の若者たちがうようよいる。『若者たち』はこの95年に出るべくして出た作品だ──しかし、多くの人は答えを保留しているような状態であった。
そんななか、96年2月にセカンド・アルバム『東京』が発表される。トータルな作品としての完成度を増したこのアルバムを価するのに躊躇する者はほとんどいなかった。ライヴの動員も飛躍的に増え、この一枚でサニーデイ・サービスは90年代を代表するバンドのひとつとなった。と同時に、その溢れる表現欲を抑え切れないかのような〈多作〉のバンドにもなっていったのだ。この年には“ここで逢いましょう”(7月)、“サマー・ソルジャー”(10月、なのにサマー!)と2枚のシングルをリリースし、翌97年1月、サード・アルバム『愛と笑いの夜』が発表される。余談ではあるがこの頃、曽我部は敬愛するミュージシャン、遠藤賢司との交流を深めており、bounceでは両者の対談という形でこの作品を紹介したのだが、その対談現場の曽我部はこちらが困惑するくらい不機嫌であった(掲載した写真をいま見てもその不機嫌ぶりはあきらかだ)。その担当編集者であった筆者も、そのときは正直〈何よその態度!〉と思ったものだが、いまだったら作品にきちんと向き合わず対談という〈企画〉に逃げたことに対するステイトメントだったんだな、と痛いほどよくわかる。それほど、表現欲と表現スキルが合致したバンドの充実ぶりをよく伝えている作品だったのだ。この年も、“白い恋人”(2月)、“恋人の部屋”(5月)、“Now”(9月)と全盛期のアイドルもかくやというスパンでシングルを立て続けにリリースし、サニーデイ・サービスのディスコグラフィーはよりカラフルに彩られていった。
そうして前作から1年と経たずして発表された4枚目のアルバム『サニーデイ・サービス』に、多くの人は息を呑んだ。アートワーク通りの静謐さのなかに凄みさえ感じられるその完成された音楽は、衝撃的ですらあった。象徴的なのは、雑誌MARQUEE Vol.4だ。曽我部のロング・インタヴューと同時に掲載された、音楽と人/モア・ベター/クイック・ジャパン/WHAT's IN ES/米国音楽/ロッキング・オン・ジャパン/bounce(ホントすいません俺です)といった音楽誌の編集長(たびたびすいません俺だけヒラです)の証言が並ぶ様は、いわゆる〈音楽聴き〉のサニーデイへの高評価を如実に物語るものだった。と同時に、彼らは多くのミュージシャンからも〈やるじゃん〉と目される存在になっていた。身近なところで言うと、当時〈フォーキー〉というタームでサニーデイと括られることの多かったバンド、フリーボのメンバーが〈これまでサニーデイって甘すぎてあんまりいいと思わなかったんだけど、このアルバムで初めていいと思った〉と語っていたのが印象深い。しかしこのアルバムの成し遂げた〈到達〉は、同時に終わりの始まりだった。先頃解散を発表したゆらゆら帝国同様に〈完成しちゃったから、終わり〉という判断もあったはずだ。しかし、サニーデイ・サービスは続けることを選択し、時としてバンドとしては崩れた姿を見せることになるのだった。
さよなら!街の恋人たち
97年、これまでのリリース・ペースからすると〈開いたな〉と感じられる5月に、そのタイトルも意味深長なシングル“さよなら!街の恋人たち”をリリース。続く7月、5枚目のアルバム『24時』は発表される。その収録時間も楽曲のヴァリエーションも〈闇雲〉という形容が相応しいこのアルバムは前作から一転、非常に熱量の高い作品になっていた。“今日を生きよう”(ザ・テンプターズ)、“堕天使ワルツ”(ジャックス“堕天使ロック”)、“太陽の翼”(ザ・スパイダース)と、熱狂的な音楽の代名詞であるGSおよびその周辺の援用と思しきタイトルの収録曲からも、熱のある作品にしようというバンドの意図が読み取れる。そして、このアルバムのリリース時点で曽我部は〈サニーデイは解散できないバンドになった、ついに〉と語っていたのだった。それは、前作で成し遂げたものの大きさから一歩踏み出せたことによる達成感を表すと同時に、ともすれば崩れかねないバンド内バランスの危うさの裏返しだったのではないだろうか。
多数のゲストを招いた『MUGEN』(99年10月)、打ち込みも導入してさらに多くの仲間を呼んで完成させた『LOVE ALBUM』(2000年9月)とアルバムを重ねるごとに、〈3人でサニーデイ〉という原則は崩れていく。しかし、それはいまだから言えることであって、当時はリリースがあるたびに、その進化と成長を頼もしく、また嬉しく思ったものだ。楽曲はよりポップ・ミュージックとしての完成度を高め、ヴォーカリスト・曽我部はますます艶を増していく。多くのリスナーと同様、21世紀の彼らはどういう音楽を聴かせてくれるんだろう?と心待ちにしていた。しかし──〈LOVE ALBUM TOUR〉も終盤に差し掛かった2000年12月8日、突如解散が発表される。幼稚園におけるライヴ盤『FUTURE KISS』がリリースされた矢先の出来事であった。そして12月14日、新宿・リキッドルームのライヴをもってサニーデイ・サービスは終わりを迎える。最後に演奏されたのは、4度目のアンコールに応えた“サマー・ソルジャー”であった。
サニーデイ・サービスが成し遂げられなかったこと、それは〈売れる〉ことだ。それが解散の原因だったと言えるかもしれない。たしかに、リリースのたびに音楽誌の表紙を飾り、大型CD店はあたりまえのようにコーナーを作っていた。しかしそれは〈音楽村〉の出来事に過ぎない。本当は、各家庭のお茶の間にまで自分たちの音楽を届けたかったに違いない。「笑っていいとも!」の〈テレフォン・ショッキング〉に曽我部が出演した際、観客席の〈誰?〉という困惑とそれに対する曽我部の申し訳なさが画面越しにもビンビンに伝わっていたのは実に象徴的だ。
しかし一方で、もしお茶の間レヴェルにまで売れていたとしたら、サニーデイ・サービスは、ここまで愛されるバンドになっていただろうか?という思いもある。レコード会社の規模もあって、大量の宣伝費を一気に投下してドカン!というプロモーションが不可能だったにしては、彼らは愛された。業界の人間であってもサニーデイを聴くときはいちリスナーに戻ってしまう、という愛され方だ。そういえばある時、サニーデイの取材で曽我部がこう言ったことがある。〈僕らは絶対、累計ですごく売れると思う。未来の人が何度も発見してくれて、そのたびに再発されて、っていう〉。それが妄想ではないことは半ば証明されているように思う。そして──。
▼関連盤を紹介。
左から、サニーデイ・サービスの2000年のライヴ盤『FUTURE KISS』(ミディ)、曽我部恵一の2006年の弾き語りライヴ盤『東京コンサート』(ROSE)