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特集

ソングライティングの詩学、をめぐる覚書

カテゴリ : Exotic Grammar

掲載: 2010年04月22日 19:41

更新: 2010年04月22日 20:13

ソース: intoxicate vol.84 (2010年2月20日発行)

text:青澤隆明

──佐野元春、矢野顕子、大貫妙子の音楽と言葉にみちびかれて

言葉は大勢の人々の乗りものだから、個人的な想いはいつもどこか零れてしまう。それでも、その想いを表現するのに、あるいは縁どりするために、言葉による伝達によりかかっている。とすれば、とてつもなく大きな余白をたたえた言葉か、あるいは厳密に選びぬかれた点描によって、その想いを指さすことに関心が向かうのは必然だろう。大雑把に言えば、神話のかたち、秘儀のかたちが、それぞれの方角に待ち受けている。私的なものと思いたいなにかを伝達するのに、社会的なツールをつかわなければいけないこと、自己に固有と信じたいなにかと周囲の他者との折り合いをつけることは、コミュニケーションにまつわる日常的な乖離だろうが、それぞれはもともと独立したなにかですらないのかも知れない。

しかし、それぞれが用いる言葉にそれぞれの生理的ななにかが息づくのに加え、あいまいさと多義性によってひらかれた組み合わせや再定義の余地は、僕たちが生み出す誤解の数ほどにかぎりなく大きいはずだ。ひらたくいえば、多くのひとの心理に共通のなにかを響かせながら、多様な解釈の可能性に向かってひらかれていること、それがコミュニケーションの開放と精緻を兼ね備える方向なのだろう。そして、オリジナリティとポピュラリティ、創造性と普遍性が隣りあうことが、たとえばポップ・ミュージックの生命線にもなってくる。コモンななにかを示しながら巧みに差異を織りこんでいること、それをおそらくは意識的でなく潜在的に感知させることに、その表現領域の可能性はひそんでいる。

語るに落ちること、を歌うもの。たとえば、そのようにポップ・ソングの魅力と広がりをみとめるとき、いつもそこには言葉、あるいは想いを乗せる表現の身体として、つねに固有の声が響いている。いわば、声は言葉の、身体は感情の器である。サウンド・デザインのなかで言葉をパートとして、トム・ウェイツふうにいえば「得意楽器のボキャブラリー」を運ぶのは、パフォーマーの身体である。言葉の孕む抽象性に対して、そこには多くの場合、愚直なまでに人間の身体が置かれている。それがどれだけイコン、あるいはヴァーチャルなものになろうと、発信の起点としての具体性やノスタルジーは留保されるだろう。

音楽を論じれば、言葉を逃し、言葉に言及すれば、音楽を見失う。多くの議論がそうして、作品そのものから遠ざかっていくことを僕たちはみてきた。一体となったものを切り離して解析するところまではいいのだが、そのあとにそれをひとつの身体に還すことを忘れると、僕たちは部分に惑わされてしまう。
たとえば、ここにひとつのポップ・ソングがあるとして、誰もその声から言葉や旋律をとり上げることはできない。サウンドのことはさておき、ある楽曲の言葉と音楽をみつめるとき、それを独立したなにかではなく、双方の関係性のなかにみることはひとつの条件である。ならば、音楽を演奏するように言葉を論じ、音楽を論じるように言葉を演奏することを夢みたい。

つまり、歌うように考え、考えるように歌うことはできないのだろうか。もっといえば、歌と言葉の思考が不可分の場所で、なにかを表現するとはどういうことなのか。歌うように考え、考えるように歌う、そのとき僕たちの思考は言葉よりも音楽よりも、もっと人間に近づいていくのではないか。そのような夢想を抱きながら、僕たちはポップ・ソングに向き合う。そして、そこには、歌うひとと聴くひとの間に無数に切り結ばれる関係性がある。

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