ERIC ROHMER(2)
カテゴリ : Exotic Grammar
掲載: 2010年03月05日 11:31
更新: 2010年03月05日 12:13
ソース: intoxicate vol.84 (2010年2月20日発行)
text:甲斐田祐輔(映画監督)
エロチックなシーンにしても、過度な表現を用いていないにも関わらず、とにかくエロく感じてしまう。これはもはや名人芸である。『クレールの膝』における少女の膝を触りたい!?という欲望を持っているジャン・クロード・ブリアリ扮する中年男が少女とボートに乗っていると、不意に雨が降ってきて、二人は小屋で一時的に雨宿りをする。そこにはもちろん2人で乗ってきた湖におけるボートの揺れという動きもちゃんと効力が発揮されてきている。そして小屋の中、中年男は少女の付き合っている男がいかに彼女を裏切っているかを言い挑発し始める。そこには会話と雨音と時折遠くで響く雷の音があり、あとはビニールシートからツルリと落ちる水しぶき!動揺した彼女は否定しながら泣き出してしまう、ハンカチをそっと渡すブリアリ、そしてブリアリの手が少女の膝にいった!と同時に彼女は涙が止まる。彼を受け入れたのか?ブリアリは一体いつまで触ってたんだろう、どのくらい時間が経ったのであろう、そこにふと湖の景色が差し込まれる。そして、ブリアリの手が少女の膝から離れると共に雨もあがる。ブリアリ「さあかえろうか」って??見事な官能的シーン?である。
ロメールの映画は特別難しい事を言っている訳ではない。出演者は一見、野暮ったいし、どちらかというとどこにでもある話ばかりである。そのためよく目をこらし、耳をすまさないと大筋に気をとられつまらなく感じてしまうかもしれない。そう、ロメール映画は情報で観るものではないのだ。これが何故瑞々しい映画に変貌するのか?何作か見直してみていま一度考えてみた。女と男、女と女、人間ドラマが中心なのはどのロメールの作品にも共通する事なのだが、やはり人間の心理だけでコントロールできるわけではない自然、植物や動物、天気のすべてが、お互いに影響しあっている状況下で絶妙に描かれている。この小さくみえるロメールの世界はこの世界に共通しているという事に気がつく。何が起こるかは〈現在〉になってみないとわからないのだ。それにしても「喜劇と格言劇」シリーズはトップカットとエンドカットが同じっていうのはおもしろい、ロメールのインタヴューではマルセル・カルネのオマージュといっていたけど。
さて、ロメール映画との出会いはあまり覚えていない。ロメール映画は知的で完璧な印象があり、自分にとって一番身近に感じたのはどちらかというとその制作スタイルだと思う。フランスのヌーベルヴァーグの長兄的役割であるにもかかわらず、短編やオムニバスがちょいちょい入ってくるところや、おそらくコンパクトな製作人数なところなど、かなり影響を受けていると思う。ローザンジュっていう自分達の製作会社もつくったりして。そして撮影監督のアルメンドロスのインタヴューにもあったのだが、予算がないのでなるべくフィルム量を使わず、とても撮影の量が少ない。まあもっともこのような話はビデオ全盛の今はあまりあてはまらないかもしれないが。
とにかくフットワーク軽く自由に映画を作っているように見えたから。しかし、今になってみると本当の意味でロメールは柔軟だったのだなあと思わされる。おそらくアルメンドロスとの出会いも偶然だっただろうし、その後のダニエル・シュミット等でおなじみのレナート・ベルタとは『満月の夜』一作のみだが、その後のソフィー・マンティニュー、そして遺作まで共にするディアーヌ・バラティエまで実質はともかく経験があまりないスタッフ(レナート・ベルタを除く)と一緒に映画をつくりあげてきたんだと。ずっと携わっている録音のパスカル・リビエもロメールからキャリアをスタートしているみたいだ。いわゆる制作の方法は作品を追うごとに自由度を増していくように見えて、処女作に近い作品程ある意味での安定感がある気がするのもとてもおもしろい。
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