こんにちは、ゲスト

ショッピングカート

特集

相対性理論と渋谷慶一郎(2)

カテゴリ : Exotic Grammar

掲載: 2010年02月15日 17:37

更新: 2010年04月12日 18:52

ソース: intoxicate vol.83 (2009年12月20日発行)

text:南部真里

相対性理論と渋谷慶一郎が共作を準備していると知ったのは、今年の9月24日の吉祥寺だった。私が日付を憶えているのは、私はこの日に彼ら──というよりもやくしまるえつこ──と会い、その二日後に行われた『スペクタクル・イン・ザ・ファーム』で彼女の朗読といっしょに演奏するためにリハーサルを行ったからだ。小一時間のリハーサルを終えて、五日市街道を左に折れ、駅に向かう道すがらその話を聞いたとき意外にはおもわなかった。彼らはすでに渋谷慶一郎と共演していた──前段で書いた渋谷慶一郎のライヴは相対性理論がホストをつとめた6月24日の『解析Ⅰ』でのことだ──し、彼らにはライヴは観客に音楽を供する場であるとともに、回を重ねるごとにラインナップから彼らの立ち位置をはからせる役割だった。共演者は上げないが、企業倫理や代理店が幅を利かせそうなブランディングやマーケティングを他者に頼らずつづけるのはこの時代ことのほか難しいとはわざわざ書かなくてもわかる。いや、そうでないに違いない。「この時代」、個人は一日に何ギガもの情報にさらされ、音楽の産業構造は変わらざるを得なくなった。構造の変化はそれを説明する言葉を求め、音楽を語るには社会学を借景としなければならなくなり、背景を前に、希釈されたアーティスト個人の自意識の受け渡しになったポップ・ミュージックはどこかフリーペーパーのようでもある。

ポップ・ソングの前提には楽曲の「良さ」があって、誰しもに開かれているがゆえに時代の「風景」になるが、風景は全体だけあるわけではなく、細部を兼ねた全体というか、細部が全体を反復するというか(まるで複雑系みたいですが)、音楽でいえば、誰もが語りたがる後景の「物語/データベース消費」の慣性に身を任せるのではなく、個別のアルバムや曲や演奏に留まることがなにかを照らしだすこともあるのではないか。

私は長々と関係なさそうなことを書いたのはそれが相対性理論の説明になりそうだと踏んだからなのだが、彼らは私の意見にも「たしかに曲作りでなにかを想定することはあるけど、ネタ探ししてもらいたいわけじゃないです」とか「誘ってもらったライヴに参加しているだけですよ」とか返すだろうか? しかし彼らには元から「彼らは私たちのことを歌ってそうだ」と私たちを引き寄せるなにかが、またライヴの共演者であれば「彼らは私たちの音楽を受けとめてくれそうだ」とおもわせる得体の知れない懐の深さがある。その要因は彼らの基本が昔ならシングル片面の3分台の曲だからであり、それらが集まった『シフォン主義』と『ハイファイ新書』の2作は90年代までのアーカイヴ・カルチャーと地続きでありながら00年代の心象風景を描き、ポップ・ミュージックの枠組みの境界線の内側を走査したかにおもえた。季節感はジャストだった。しかも彼らはそれらのことをみずから口にすることもなかった。音楽なんかそっちのけで誰もが語り(つぶやき)たがる時代なのに。その意味で彼らはミュージシャンの集団、それもエチケットよりもエシクスにすぐれたグループだとおもう。個々はスタジオ・ミュージシャンのように匿名的だけど曲の求めに音で応じる。相対性理論には事前に指定のはっきりした厳密なスコア(市販のバンド・スコアのことじゃないですよ)はないだろうが、スコアがあるようなものだ。スコアを音符でできた物語と解釈すれば、彼らは00年代なかば以降を覆った磁場に回収されそうなものだけど、その譜面はどこか暗号めいていて、再現性を保証するようでいながら、音楽は即興性に開かれていて、音楽は違う形であらわれる。

私は当たり前のことを延々と書いている気になってきたが、即興でなくても音楽には即興性がつきまとっていて、私は那須塩原のホテルの宴会場でやくしまるえつこの朗読のバックをつけたとき、テキストを読む彼女の呼吸と発声と間の取り方に、演奏と違わない即興性をはっきり感じたし、simがやくしまるえつこと定期的にライヴを行うのにもきっと再現性に即興の要素を組みこむ意図があるだろう。

記事ナビ

インタビュー