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BLOOD ON THE DANCE FLOOR 終わりのない苦悩と、その果て

カテゴリ : スペシャル

掲載: 2010年01月06日 18:00

更新: 2010年01月25日 21:05

ソース: 『bounce』 317号(2009/12/25)

文/出嶌孝次

個人的な思いや主張をアートに変えるからアーティストなのだ、と思う。〈主張〉のように大袈裟なものではなく、単に表現のための表現であろうとも、他愛のないことを歌っていようとも、それは表現者として個々のアーティスト性を最大限に発揮しているのだから構わない。つまり、マイケル・ジャクソンはただ単純に自分の作りたいものを作り、それを全うしていたに過ぎない。本当ならそれだけで済むことだった。本当なら受け手はその音楽が好きか嫌いかだけを判断すればいい。が、世間はそれ以上の何かを求めたのだ。

着飾った神秘的なスターから庶民的で気さくな人へ、贅沢なステージ衣装から普段着っぽい装いへ、大きな理想よりも現実に根差した歌へ……80年代的なものを否定する風潮は、ある瞬間に一気に訪れた。それと同時に、明快なエンターテイメントを何となく小馬鹿にするような空気が、90年代に入るとどんどん支配的になっていく(ある世代間ではいまも根深いだろう)。代わりに称揚されたのは、〈リアルさ〉という新しい幻想である。全米1位を4週独走した『Dangerous』を引きずり下ろしたのはニルヴァーナの『Nevermind』だった。

〈普通の人〉じゃない人として

そんな 90年代において、〈商業的すぎてリアルじゃない〉などという、よく考えればヘンテコな理由で敬遠されはじめたマイケルはどう振る舞うべきだったか。多くの90年代ヒーローのように自身の〈リアル〉なトラウマをウリにすればよかった? まあ、彼の理想とする音楽がそういう意味で〈商業主義的〉じゃなかったのは言うまでもないし、人々が望む〈身近さ〉を演じることも彼には不可能だった。なぜなら彼は、一般社会で暮らした経験もほとんどなく、浮世離れしたまま莫大な富を得たスターなのだから。他人からすると金銭感覚がおかしかったりする〈非常識〉な人なのだから。そして、その天然なセンスも考え方も才能のスケールも常人と同じはずがないアーティストなのだから。

非常に象徴的だったのは、96年のブリット・アワードでマイケルのパフォーマンス中にジャーヴィス・コッカー(パルプ)が乱入し、〈お尻ペンペン〉を披露して騒ぎになったことだろう。当時の音楽メディアでは彼の行動を痛快なものとして受け止める動きが主だったように思う。ジャーヴィス自身によると〈マイケルが神のような思い上がった行動を取ったことに抗議した〉そうだが、奇しくもパルプが“Common People”で皮肉ったように〈普通の人のようには暮らせない〉相手を常識で計ること自体がおかしいのだが……結局のところ、どんなものも〈普段着の~〉や〈等身大の~〉とか〈DIY〉とかいう耳通りが良いだけの言葉を基準にしてジャッジする感覚のほうが狂っているのだ。そしてもっと重要なのは、こういったアーティストのイメージ/見え方とアートそのものの真価に本当は何の関係もないのだということである。そもそもマイケルが“Black Or White”で仄めかしたのはそういうことではなかったのか?

感情的になっていった作風

前置きが長くなった。92年、全米で絶大な視聴率を誇るオプラ・ウィンフリーのトークショウに出演したマイケルは、罹患した尋常性白斑について〈皮膚の色素が抜け落ちていく病気〉として初めてみずから公にしている。音楽評論家の吉岡正晴さんは83年の時点でマイケル本人から〈陽に当たってはいけない病気〉と聞いたそうだし、85年にレーガン大統領と手袋のまま握手をした際の弁明も〈皮膚病を患っているから〉というものだった。彼が80年代から皮膚病を患っているということは、後に周辺の人物によっても明らかにされるのだが、アフリカン・アメリカンとしてのアイデンティティーを揺るがす病の告白は相当な決意を要したに違いない。が、その後も〈マイケルは肌を漂白した〉という認識が(追悼番組ですら!)改まることはなかった。

フラットに見てマイケルが必ずしも真実を言っているわけではないとしても、本人サイドの公式な言い分がずっとスルーされていくわけだから、気持ちの良い状況なわけがない。これ以降の彼はメディアを通じてのインタヴューなどではなく、楽曲を通じてのみ自身の意見や本音を吐露していくようになる。

が、その発露はベスト盤とセットで出された2枚組の『HIStory』(95年)まで持ち越された。もともとは最初の少年への性的虐待疑惑(詳細や虚しすぎるエピローグは各自調査)を受けて93年にツアーが中断された後、リサ・マリー・プレスリーと結婚したマイケルは94年秋に新曲入りのベスト盤発表を計画するのだが、言いたいことがありすぎたのだろう。新曲はいつしかアルバム1枚のサイズへと膨れ上がっていった。

かくして登場した『HIStory』は、栄光の歩みを辿るベスト選曲のDisc-1と、当時の苛立ちや怒りを包み隠さずぶちまけた新曲集のDisc-2という、マイケルを取り巻く過去と現状のコントラストをハッキリと示すものとなる。ここからは妹ジャネットとの初(にして唯一の)デュエット曲“Scream”がヒットを記録。また、当時のテディ・ライリーを凌ぐ勢いで台頭していたR・ケリーによるバラード“You Are Not Alone”は全米シングル・チャート史上初の初登場No.1を記録し、キングの威信をアピールした。さらに、環境破壊について問題提起した“Earth Song”は彼にとってUKで最大のヒットになっている。一方、虐待疑惑の際に刑事告訴を働きかけた検察官をほぼ名指しで口撃する“D.S.”や、タイトル通りの“Tabloid Junkie”など、感情に任せて娯楽精神を忘れたような楽曲も多く含む内容は異色……とはいえ、それがマイケルなりの〈リアル〉だったのだ。ジャム&ルイスやダラス・オースティンらその時点で最高の職人を迎えながらも、『Dangerous』でテディと組んだ時のようには他者のカラーを受け入れる気がなかったのかもしれない。

他方では、自身がブラック・ミュージックに切り拓いた道が、90年代のメインストリームとなったことを実感したのか、以降のマイケルは意図して手広いクロスオーヴァーを行うのではなく、時流のR&Bにより根差したサウンドで自然なボーダレス化を図っていくことになる。94年に設立した自身のレーベル=MJJからはブラウンストーンやメン・オブ・ヴィジョン、兄ティトの息子から成る3Tなど R&Bアクトを主に送り出していたのもその志向の現れだろう。マイケルの没後、追悼式の様子を〈黒人社会から出ていった彼を必死に取り戻そうとしているかのようだった〉と書かれた文章を格調高い音楽誌で目にしたが、いったい何を聴いていたの?と言いたくなる。

ともかく、離婚と再婚を経て混乱は続く。97年には変則的な新作『Blood On The Dance Floor』が唐突に発表され、前後して『HIStory』からは“Smile”のシングル・カットが中止されるなど、この頃にはソニーのトップだったトミー・モトーラとの対立が始まっていたようだ。98年頃にはロドニー・ジャーキンスやウォルター・アファナシエフらを迎えてアルバム制作が開始。99年秋にリリースが予定されるも延期を重ね、90年代はそれで終わってしまった。

その時が来るまで

最終的に『Invincible』がリリースされたのは2001年10月。それに先駆けた9月7日と10日にはNYでソロ・デビュー30周年を祝うコンサートを開催し、アッシャーやクインシー・ジョーンズ、そして兄弟を迎えたジャクソンズ6人でのステージも久々に実現している。翌11日に全米を襲った同時多発テロに際しては、“We Are The World”を思わせるチャリティー曲“What More Can I Give”(MJ節全開の名曲!)をマライア・キャリーやビヨンセ、ルーサー・ヴァンドロスらと迅速にレコーディング。チャリティー・コンサートも催すなど、この時期のマイケルは何かと意欲的だった。

その『Invincible』からは、ロドニー・ジャーキンスらしいスウィング感がマイケルらしさに合致した“You Rock My World”が、USでは10位に止まったもののヨーロッパを中心にNo.1ヒットを記録。エアプレイのみで“Butterflies”がR&B チャート2位まで上昇するなどのトピックもあったし、収録曲のエレガントな味わいは素晴らしいものだった。が、いままでのようにショートフィルムが連発されることもなく、モトーラとの対立は一気に表面化していく。

そんな状況を打破すべく、恐らくは契約の区切りという意味も含んだのがベスト盤の『Number Ones』だったのだろう。そこにはR・ケリーとみたび手合わせした新曲“One More Chance”も収録されたが……2003年11月、そのプロモーションを遮るようなタイミングで、マイケルは新たな性的虐待疑惑によって逮捕される。始まった裁判は2005年6月の勝訴によって収束を迎えるのだが、その間にアーティストとしての現役感はすっかり損なわれてしまった。

しかし、音楽と関係のない報道の影に隠れながらもマイケルは着々と〈その時〉の訪れを手繰り寄せていたはずだ。2007年の時点でケニー・オルテガと組んでラスヴェガス公演を行うプランも練られていたそうだし、それがロンドン公演に実を結ぶはずだったのは言うまでもない。

そもそも、なぜ皆はあんなにマイケルを好きだったのだろう。それをもう一度思い出させるところまで、彼は自分の力で戻ってきていた。あなたはなぜマイケルが好きなのだろう。いい人そうだから? 凄い枚数を売ったから? 慈善活動に熱心だから? 可哀想だから? 筆者はマイケルがどんな人かよく知らないが、その音楽がどんなに素晴らしいかは知っている。彼がそこにみずから戻ろうとしていたことは嬉しいし、だからこそ悔しい。最高の音楽をありがとう、マイケル。

 

▼マイケル・ジャクソンのベスト盤。

左から、2003年の『Number Ones』(Epic)、2008年の『King Of Pop -Japan Edition』、アルバム未収録曲“Can't Get Outta The Rain”を収めた2009年の『The Essential Michael Jackson 3.0』(共にEpic/ソニー)

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