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カテゴリ : スペシャル

掲載: 2009年12月09日 18:00

更新: 2010年01月25日 21:03

ソース: 『bounce』 316号(2009/11/25)

文/林 剛

ポップ・ミュージックの頂点へ

 

当初は2週間の上映予定が、世のフィーヴァーに押されて2週間延長上映されるなど、予想を超える大ヒットとなったドキュメンタリー映画「マイケル・ジャクソン This Is It」。ロンドンのO2アリーナで行われるはずだったライヴのリハーサルの模様を中心に構成されたこの映画は、通常ならライヴDVDの特典部分に収められるような舞台裏を公開したにすぎない映像集ではある。だが、マイケルが全身全霊でリハーサルに臨む映像の数々は、晩年のスキャンダル報道によって抱かされていた〈もう歌えないのではないか? 踊れないのではないか?〉というMJに対するネガティヴなイメージをあっさりと覆してくれたという意味で、非常に意義深いものだった。また、リハの最中にマイケルがスタッフに指示する際の言葉がいちいちポエティックだったりする(「月光に浸るような感じで」とか)のも興味深いし、注文をつけた後も「怒っているんじゃない、これは愛なんだ」とフォローする姿には、改めてMJのMJたる所以を見せつけられた思いもする。やはりマイケルは最期まで熱心な音楽家であり続けたのだ……というあたりまえのことを脚色なく伝えてくれたこの映画は、MJを愛するファンにとっては、とにかく胸のすく思いだったに違いない。

スリリングだった舞台裏

 

 

映画でも見せつけた、そんなクリエイター魂にもっとも火が点いた瞬間……それはやはり、『Off The Wall』のリリース後だったのではないだろうか。全力を尽くし、大ヒットを記録したにもかかわらず、同作が79年度のグラミー賞で〈最優秀アルバム〉部門にノミネートされなかったことにひどく傷ついたというマイケルは〈今度こそ史上最高のアルバムを作る〉という目標をみずからに課し、命を削る思いで制作に臨んだという。82年夏に制作に取り掛かったとされる『Thriller』は、そんな意地とプライドを賭けた、マイケルにとっては失敗の許されないプロジェクトだった。だが、マイケルは、クインシー・ジョーンズをはじめ、ロッド・テンパートン、ルイス・ジョンソン、グレッグ・フィリンゲインズといった、『Off The Wall』からの続投となる制作スタッフに絶対的な信頼を置いていたようで、自分が上手くコントロールさえすれば良い作品になると信じていたという。前作ではスティーヴ・ポーカロのみの参加だったTOTOのメンバーも今回はほぼ全員が参加し、バックの布陣は完璧だった。

結果から言うと『Thriller』は、楽曲の構造やアルバムの展開など、前作『Off The Wall』を踏襲したものである。78年の時点でデモが出来ていたという冒頭のダンス・チューン“Wanna Be Startin' Somethin'”は前作の冒頭曲“Don't Stop 'Til You Get Enough”に相当するものだし、ロッド・テンパートンが書いた両作の表題曲も酷似している……といったように。いわば『Thriller』は『Off The Wall』のアップデート版で、グラミーから評価されなかった前作をベースに、さらに強力なグルーヴと新しいアイディアを加えて、もう一度自分の力を世に問うてみようとでもいったマイケルのリヴェンジ精神のようなものが、同作には見え隠れしていた。

アルバムの先行シングルとしては、ポール・マッカートニーとのデュエット曲“The Girl Is Mine”をリリース。これはアルバム制作の初期段階に、後にポール主導曲としてヒットする“Say Say Say”といっしょに和気藹々と録音したとされる。だが、以降は時間との戦いで、レコード会社から仕上げを迫られる日々。映画「E.T.」のイメージ・アルバムの仕事(MJ流の優美さに満ちた“Someone In The Dark”もそのひとつだ)も同時に進めていたため、現場はかなり混乱していたようだ。

そんなゴタゴタのなかで制作が進められたせいか、仕上がったアルバムを聴いてみると、ミックスがまるでダメということが判明。あまりに安っぽい仕上がりだと感じたマイケルは、悲しみと怒りをこらえきれず、〈これはリリースしない!〉と叫んでスタジオから出ていったという。あの超大作も一度はお蔵入りの危機に瀕していたというわけだ。が、その後、改めてミックスをやり直して、82年11月にリリースされた『Thriller』は、いまや誰もが知る結果を叩き出した。“Billie Jean”をはじめ、エディ・ヴァン・ヘイレンのギターが唸るMJ流のロック・チューン“Beat It”、TOTOの面々がサポートした優美なメロウ曲“Human Nature”など、アルバムからは足かけ3年に渡ってシングル・ヒットが誕生。後に〈ショート・フィルム〉と呼称されるPVがMTVで放映されたことも人気を後押しし、特に最後にシングル化された“Thriller”は、ジョン・ランディス監督のPVとの相乗効果によって曲のセールスを伸ばした。

過去への復讐と訣別

 

そうしたなかでマイケルをさらなる高みへと導いたのが、83年春に行われた古巣モータウンの25周年記念コンサートである。本来は往年のレジェンドたちが過去のヒットを歌い、社の功績を称えるというショウだったにもかかわらず、マイケルだけは当時ヒット中の“Billie Jean”を歌うことを条件に出演。モータウンとは無関係な現代の曲を歌って圧倒的なパフォーマンスを見せつけ、J5時代に創作の自由を制限したかつてのボス、ベリー・ゴーディJrを完膚なきまでに見返してやったのだった。ハイライトは同曲の途中で披露したムーンウォーク。これはTV放映されたことで全米中の話題となり、停滞気味だったアルバムの売り上げも再度アップしたという。84年1月にはペプシのCM撮影で頭部に火傷を負う災難に見舞われるも、この事件でもアルバム・セールスが伸びるなど(同時にペプシも売れたとか)、マイケルはまさにメディアの寵児となっていた。そして、84年2月のグラミー賞では史上初の8部門制覇。その結果を前に、マイケルは喜びのあまり家の周りを叫びながら踊ったという。

モータウンにもグラミーにも〈復讐〉を果たした――こうして過去にケリをつけたマイケルだったが、兄のジャーメインが復帰した6人体制のジャクソンズのアルバム『Victory』(84 年)には顔を出し、ジャーメインとの“Torture”やミック・ジャガーとの“State Of Shock”など3曲でリードを取っている。ただ、このアルバムの名を冠した〈Victory Tour〉では、兄弟との再会を喜びながらも失望や不満のほうが大きかったようで、結果、ジャクソンズを脱退。もはや超人となり、すべてを自身でコントロールできるようになったマイケルにとって、そこはもう帰るべき場所ではなくなっていたのかもしれない。

そして、そんなマイケルの超人ぶりに拍車を掛けたのが、全米の人気歌手が集結したチャリティー企画〈USA・フォー・アフリカ〉のテーマ曲“We Are The World”(85年)だった。マイケルとライオネル・リッチーが共作した、美しい旋律と神聖な響きを持つメッセージ・ソング。マイケルがひとりで歌う同曲のデモ・ヴァージョン(2004年のボックスで初公開)を聴くと、ほとんどマイケル主導で作っていたという印象を受けるが、だからなのか、当初マイケルはこれを自分(とライオネル)のリードで歌いたいと申し出たという。もちろん、プロジェクトの指揮者だったクインシー・ジョーンズは、そうした言動を傲慢と感じ、諭した。が、そうなるのも仕方がなかった。なぜならマイケルはもう〈キング〉になっていたのだ。マイケルをコントロールできる人は、もはや誰もいなかった。〈マイケル・ジャクソン〉というブランドを背負って、ひとり勝負していく時代が始まっていたのである。

 

▼関連盤を紹介

ショート・フィルムを集めたDVD「History On The Film Volume 2」(Epic)。〈モータウン25〉での伝説のムーンウォークはここで観られます!

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