'TIL YOU GET ENOUGH
アーティストとしての覚醒
結局、兄のジャーメイン・ジャクソンが主催する追悼コンサートは無期延期となったが、映画「This Is It」の公開を間近に控えて同タイトルの新曲(未発表デモ)がリリースされ、モータウン時代のソロ~ジャクソン5音源のリミックスから成る『The Remix Suite』や、J5の未発表曲集『I Want You Back! Unreleased Masters』のリリースも決定するなど、他界して約4か月経ったいまもMJフィーヴァーは続きっぱなしだ。
そうしたなか、かつてマイケル主宰のMJJからデビューしたブラウンストーンが復活に向けて動き出したというニュースも入ってきた。そういえば兄ティトの息子たちから成る3Tも MJJ所属だったが、MJJといえばメン・オブ・ヴィジョンも忘れちゃいけない。ジャクソンズ“Show You The Way To Go”のカヴァーを披露し、颯爽と現れた5人組。MJファンのなかには、そんなメン・オブ・ヴィジョンと、かつて流麗なフィリー・サウンドに乗って再デビューを図ったジャクソンズの姿がダブって見えた人もいたかもしれない。
フィラデルフィアでの研鑽
兄ジャーメインを残して、ついにモータウンを離脱したジャクソン兄弟は、末弟のランディを新メンバーに迎え、創作と印税の両面で好条件を示したCBS/エピックと契約、ジャクソンズと名称を改めて新たなスタートを切った。76年のことだ。同時にCBS傘下のフィラデルフィア・インターナショナル(PIR)のロゴも纏った彼らは、兄弟愛の街として知られるフィラデルフィアに向かい、まさに兄弟の絆を深めながら自分たちの音楽を作っていく。そんな彼らの新たな音楽パートナーとなったのが、PIRを主宰したフィリー・ソウルの立役者=ケニー・ギャンブル&リオン・ハフとその一派だ。J5時代にもデルフォニックスやスタイリスティックスのフィリー・ソウル名曲(主にトム・ベル関連だったが)をカヴァーしていたジャクソン兄弟だけに、フィリー勢との顔合わせは名誉なことだっただろう。録音はフィリー・ソウルの聖地=シグマ・サウンド・スタジオ。実は兄ジャーメインも少し前に同所で(結局はお蔵入りとなる)アルバムを録音しており、奇遇にもジャクソンズは、別れたジャーメインに続いてシグマ・スタジオに足を踏み入れたのだ。
シグマのセッションでは、〈創作の自由〉が移籍の第一条件だったこともあってか、ギャンブル&ハフはジャクソンズを一人前のミュージシャンとして扱い、フィリー・サウンドの定型に閉じ込めなかった。例えば、マイケルがソングライターとしてデビューを飾った『The Jacksons』(76年)からの第1弾シングル“Enjoy Yourself”はJ5の“Dancing Machine”の延長線上にあるようなダンス・ナンバーで、以前“Dancing Machine”で自分のスタイルを掴んだマイケルが、より開放的な気分でその個性を前面に押し出したという印象を受ける。
そして、この頃にはマイケルの歌にも色気と攻撃性が強まってきた。後にトレードマークになる〈ウッ〉〈アッ〉という発声も顕著になりはじめ、エネルギッシュな唱法に変貌していくのだが、よく聴けばこれは、憧れでもあったハロルド・メルヴィン&ザ・ブルーノーツのテディ・ペンダーグラスにそっくりだ(マイケルはバリトンではないが)。ちなみに、ジャクソンズのフィリー録音盤とほぼ同じスタッフで制作されたテディのソロ・デビュー作(77年)には、パーカッションがポリリズミックにうねる“I Don't Love You Anymore”というダンス・ナンバーがあるが、いま思うとこれは、後にマイケルが自作する“Don't Stop 'Til You Get Enough”の雛型と言ってもいいような曲だったりする。この時期のジャクソンズがギャンブル&ハフから楽曲制作のプロセスを学んでいたというのは有名な話だが、マイケルはそれに加えて、自分に足りない男臭さを求めるべく、当時〈セックス・シンボル〉と呼ばれていたテディの力強くセクシーな歌唱を少なからず意識していたのではないだろうか。
初のセルフ・プロデュース
この〈フィリー詣で〉でジャクソンズは、『The Jacksons』でマイケルがペンを執った曲をギャンブル&ハフらと連名でプロデュースし、77年の『Goin' Places』では2曲を兄弟のみでソングライト/プロデュース。自分たちで自由に創作をしたいという夢を叶えた。この時期のマイケルがいかにフィリー勢といい関係を築いていたかは、当時ジャクソンズがシグマ・スタジオのエンジニアであるジョー・ターシアの自宅に招かれ、マイケルがターシアの妻といっしょに台所に立ってフィリー名物のチーズ・ステーキを焼いたというエピソード(ジム・コーガン&ウィリアム・クラーク著「レコーディング・スタジオの伝説」より)からも窺えよう。だが、フィリー録音作のチャート成績は芳しくなかった。また、より若々しい音を求めていたジャクソンズにとって、アダルトな路線に向かっていたフィリー・サウンドは窮屈になってきていたともいう。
フィリー録音の後、マイケルは映画「ウィズ」の撮影に入るために、姉ラトーヤとNYで生活を始めている。そんなNYでの生活(ナイトライフ)は以前から抱いていたディスコへの憧れを助長。同時に創作意欲も沸き上がってきたマイケルは父ジョーを連れて〈セルフ・プロデュースの作品を作りたい〉と、エピック社長のロン・アレクセンバーグに直談判しにいったという。
結果、78年作『Destiny』では、英国のミック・ジャクソンが書いた“Blame It On The Boogie”以外はジャクソンズ自身が楽曲制作を担当。後のMJサウンドの要となるグレッグ・フィリンゲインズらを従えて西海岸で録音した同作では、フィリーでの経験も活かし、よりアーバンかつダンサブルなスタイルを追求した。弟ランディと共作したディスコ・チューン“Shake Your Body(Down To The Ground)”はその最大の成果とも言える、後のマイケルのソロに繋がる要素満載の楽曲で、それに手応えを得てマイケルはソロ作を作りたいという思いに駆られていったような気もする。また、同じ78年には弟のランディがエピックからソロ・シングル“How Can I Be Sure”を出しており、それも刺激になったかもしれない。一方で、兄弟が一丸となって音楽制作に励みながらも、音楽に対して無邪気すぎる兄たちに失望していたともいうマイケル。そんな頃に出会ったのが、カカシ役で出演した映画「ウィズ」(78年)の音楽監督=クインシー・ジョーンズだった。
成功の果てに見えた新たな壁
映画「ウィズ」は、ダイアナ・ロスとの共演、しかも制作の仕切りが古巣のモータウンということで、マイケルにしてみれば複雑な思いもあっただろう。けれど、マイケルはそれを乗り切り、さらには同映画のサントラを手掛けたクインシー・ジョーンズに、ソロ・アルバムを作るためのプロデューサーを紹介してほしいとまで言いはじめた。結果、クインシーが〈自分ではどうか?〉とみずから名乗り出て、交渉成立。だが、エピックはそれを認めず、〈あんな時代遅れのジャズ屋に任せられん〉と一蹴。そこをマイケルが説得し、クインシーとの共同作業が実現した……というストーリーは、いまやマイケルの武勇伝として語り継がれているが、マイケルの読みが正しかったことは歴史が証明する通りだ。『Off The Wall』(79年)の誕生である。モヤモヤしていたJ5時代を経て、先人たちとの出会いによって才能を開花させていったマイケルの意気込みが冒頭の自作曲“Don't Stop 'Til You Get Enough”から炸裂するこの快作は、兄ジャーメインも嫉妬してしまう(結果、『Let's Get Serious』という傑作を放つ)ほど、これまでにない輝きと躍動に満ちていた。その自作曲は、続いてシングル・カットされたロッド・テンパートン作の “Rock With You”と共にR&B/ポップ両チャートで1位を記録。また、アルバムではウィングスの“Girlfriend”を取り上げてポール・マッカートニーとの繋がりを見せ、スティーヴィー・ワンダー作の“I Can't Help It”も歌うなど、〈グループとは違うものが作りたい〉という希望を易々と叶えたマイケルは、もはや他の兄弟よりも数段上の高みに達していた。
そんな勢いに乗じて、マイケルはジャクソンズの『Triumph』(80年)でも自身のセンスを爆発させ、80年代のR&Bシーンを先読みしたかのようなソウルフルでアーバンな逸曲を生み出している。この頃のジャクソンズは、全米ツアーの模様を収めた『Live』(81年)を聴いてもわかるように、ほとんどマイケルの一人舞台と化していたが、そうなるのも当然といえば当然だった。が、その一方でマイケルは、79年度のグラミー賞で『Off The Wall』が〈最優秀アルバム〉部門にノミネートされなかったことに落ち込んでいたともいう。成功と共に訪れた挫折──あのモンスター・アルバムへのカウントダウンは、すでに始まっていたのである。
▼関連盤を紹介。
ジャーメイン・ジャクソンの編集盤『Big Brother Jermaine』(Spectrum)。スティーヴィー・ワンダーの手掛けた超名曲“Let's Get Serious”はここでしか聴けません
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