FOREVER CAME TODAY
状況の変化と日々の葛藤
8月29日、亡骸のまま51歳の誕生日を迎えたマイケル・ジャクソンは、9月3日、LA近郊のフォレストローン墓地に埋葬された。埋葬式では、マイケルの〈第一発見者〉でもあったグラディス・ナイトがゴスペルの名曲“His Eye Is On The Sparrow”を歌い、故人を見送ったという。他界後〈信じられない〉という気持ちを抱いていたファンも、いまはその死を粛々と受け止めていることだろう。
一方で、マイケルの遺産に関する話題も絶えない。とりわけ、全世界が注目しているのは、ロンドンのO2アリーナで行われるはずだった復活コンサートと同名のタイトルを冠した映画「This Is It」の公開だろう。追悼式の会場にもなったLAのステイプルズ・センターで他界直前に行われていたリハーサルの映像を中心にした内容とのことで、10月 30日の公開(予定)を楽しみにしているファンも多いと思う。また、それより前の9月末には、兄ジャーメインが主催するマイケルの追悼コンサートがオーストリアのウィーンで行われるとも言われている。さらにはトリビュート・アルバムの企画話まで持ち上がっており、この後新たに出版される追悼書籍や写真集も含めて、MJフィーヴァーはこの後もしばらく続きそうだ。
だが、世の中で話題に上がるマイケルといえば、相変わらずその多くがキッズ感全開だった頃の初期ジャクソン5か、『Thriller』以降のどちらか。変声期の頃のマイケルに対しては、あまり興味が示されないようだ。後年の肌の色の変化については熱心に議論されるわりに、声の変化についてはどうも関心が薄いように思えてならない。
変声期を迎えて
正確な時期は不明ながら、マイケルが変声期を迎えたのは14~15歳、73年前後あたりだろうか。ちょうど東京音楽祭のためにJ5として来日した時期と重なるが、この時の大阪公演を収めた『In Japan!』を聴いてみると、確かに高音を出すのが苦しそうだ。おそらく声変わりのせいだろう。そんな感じで、この頃からJ5はマイケルのキッズ感を売りにすることが難しくなっていき、J5の楽曲制作からはベリー・ゴーディJr率いるコーポレーションが撤退。もっとも、撤退の理由は、ゴーディが映画制作に熱を上げ、J5よりダイアナ・ロス(の女優業)に力を入れはじめたからというのが真相のようだが、それでもマイケルの声変わりがコーポレーションの作る快活なサウンドと相容れなくなったということも大きかったはず。そんな変声期を乗り切ろうとしたのが、コーポレーション抜きで作られた初のアルバム『Get It Together』(73年)である。このアルバムは、変声期の不安定な歌声をまぎらわせるかのように、ノーマン・ホイットフィールド作のサイケデリック・ソウル曲などを採用してサウンドの斬新さに耳を向けさせるような作りになっていた。結果、表題曲はR&Bチャート2位を記録。しかし、この頃のJ5はヒット・チャート的には低迷気味。同じ頃にはメンフィスのジャクソン兄弟とでも言うべきシルヴァーズも登場し、J5の後を追ってきていた(皮肉にも、コーポレーションにいたフレディ・ペレンはこの後シルヴァーズに大ヒットをもたらす)。声も変わり、身体も大きくなったマイケルは、もはや皆のマスコットではなくなっていたのだ。
創造意欲の高まり
そうしたなか、マイケルに遅れを取るもソロ・シンガーとして人気を得ていたのが兄のジャーメインだ。弟マイケルへの対抗意識を原動力にソロ活動を始めたとも言われるジャーメインだが、とっくに変声期を終えて大人(男)っぽいシンガーというイメージを売りにしていた兄の存在は、自我が芽生え、背伸びをしたい年頃のマイケルにとっては憧れであると同時に脅威でもあっただろう。しかも73年には長兄ジャッキーもソロ・アルバム『Jackie Jackson』を発表。そこに追い打ちをかけてマイケルの心を乱したのが、73年12月のジャーメインとヘイゼル・ゴーディ(ベリー・ゴーディJrの娘)の結婚だ。生来内気な性格のマイケルは、兄たちが次々と大人の世界に足を踏み入れることに対して恐怖と寂しさを覚えたのか、〈結婚することは音楽活動の妨げになる〉といった考えに達してしまったようで、ジャーメインにはひどく失望したという。何ともひとりよがりな話だが、その後生涯に渡って(結婚するとはいえ)色恋に浮かれることなくストイックに芸を追求していったのは、この時の羨望と裏返しの嫉妬から芽生えた自己肯定を貫くためだったのかもしれない。こうして、思春期のマイケルはさらに自分の殻に閉じこもってしまう。そのせいか、当時のアルバム・ジャケットなどに写るマイケルの表情は物憂げで、笑顔もどこかよそよそしい。
大人社会への恐怖と憧れ。そんな複雑な気持ちを抱えていたマイケルだが、それゆえに兄たちがJ5として〈自分たちで曲を書いてプロデュースしたい〉と主張しはじめた時には素直に同調していたようだ。ちょうどその頃にはマーヴィン・ゲイが“Let's Get It On”(73年)を出しているが、その明け透けな内容を聴いたJ5は〈自分たちだってああいうセクシャルな曲を歌える!〉と兄弟全員で思っていたという。そんなJ5は、74年にスティーヴィー・ワンダーの“You Haven't Done Nothin'”にバック・ヴォーカルで参加。マーヴィンやスティーヴィーが自分たちと同じレーベルにいながら創造の自由を与えられて作品を制作している現場を目の当たりにして、J5の創造の自由を求める気持ちはさらに高まっていったに違いない。兄のティトは当時こう言っている、「同世代の気持ちを代弁できるのは、歳を取ったプロデューサーなんかではなく若い自分たちなんだ」と。
新しい自己の発見
けれど、そんななかでも、J5、とりわけマイケルを虜にした曲があった。ハル・デイヴィス制作の“Dancing Machine”だ。最初に『Get It Together』で披露され、74年にシングル・リリースされて久々のR&Bチャート1位となったこれは、続く同名アルバム『Dancing Machine』にもリミックス版が収録。当時モータウンではエディ・ケンドリックスの“Boogie Down”が大ヒットしていたが、マイケルは〈ブギー〉というダンス・サウンドをいたく気に入っていたようで、ディスコ=大人の世界への入口と考えていた彼にとって、これは我が意を得たりといった感じの曲だったようだ。
いずれにせよ、変声期を迎えていたヴォーカルとダンサブルなリズムとが抜群の相性を示し、ロボティックなダンスまで生んだ“Dancing Machine”は、後のマイケルの芸風の原点とも言えるナンバーだろう。また、同曲がシングル化された74年2月には、J5としてアフリカのセネガルをツアー。その時、首都ダカールの空港で現地のダンサーたちに出迎えられたマイケルはドラムの連打によるリズムの洪水を浴び、〈これだ!〉と自身のアフリカン・ルーツを確認したともいうが、とにかく、この頃のマイケルが新たな自分を発見し、大きな何かを掴んでいたことは間違いない。
それでも、創作の自由を与えないモータウンとの溝は徐々に深まっていった。もっともそれはJ5やマイケルだけの問題ではなく、当時のモータウンは社内情勢が悪化しており、少し前にはフォー・トップスやグラディス・ナイト&ザ・ピップスといった大物も相次いで退社していたのだ。そんななか、父ジョーは秘かに新たなレーベルを物色しはじめる。この時ジョーとゴーディは相当揉めたというが、しかしゴーディは、J5のメンバーが自分よりも実の父親との絆のほうが深いことを悟ると(グループ名の使用権以外は)比較的あっさりと移籍を認めたという。75年初頭に出されたマイケルのソロ・アルバム『Forever, Michael』なんかは追悼盤みたいなタイトルがつけられ、まるでレーベル側から別れを切り出しているような気配さえ窺える。だが、そんな裏事情など匂わせず、マイケルは“One Day In Your Life”や、J5最後のオリジナル・アルバム『Moving Violation』(75年)に収録された“All I Do Is Think Of You”といった美曲でリスナーを魅了していった。同年にTV番組「ソウル・トレイン」で司会のドン・コーネリアスから趣味を訊かれて「読書。あと毎朝、鳥に餌をやっているんだ」と中性的なソフト・ヴォイスで答えていたマイケルらしい、物憂げで繊細なこれらのバラードは、後の〈優美なマイケル〉像の原点だと言っても過言ではないだろう。
こうして75年5月、J5とマイケルは6年近くの時を過ごしたモータウンを離れ、エピックに移籍。社長の娘と結婚していたためモータウンに残ることになったジャーメインとの別れにマイケルは深く傷ついてもいたようだが、心機一転、末弟のランディを迎えてジャクソンズとして新たな道を歩みはじめるのだった。 【次号へ続く】
▼関連盤を紹介。
マイケル・ジャクソンのモータウンでのソロ音源をまとめた『Hello World: The Motown Solo Collection』(Hip-O-Select/ユニバーサル)。ここでしか聴けないものもあります!
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