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特集

WHITNEY HOUSTON(2)

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2009年09月24日 19:00

ソース: 『bounce』 314号(2009/9/25)

文/出嶌 孝次

約束されていた成功


  ホイットニー・エリザベス・ヒューストンは、63年にニュージャージー州ニューアークで生まれている。母親はプロのシンガーとして活動していたシシー・ヒューストンで、父親のジョン・ヒューストンはそのマネージャーをだったという。ホイットニーが教会で歌いはじめる頃には、母の率いるスウィート・インスピレーションズも全盛期を迎えていたし、23歳離れた従姉妹のディオンヌ・ワーウィックはバカラック&デヴィッドと組んで全国区のスターという地位を確立していた。そんな有名人の家族ということで学校では苛められることもあったそうだが、11歳で初めて聖歌隊のソリストになった彼女は、すぐに周囲から将来を嘱望される存在となる。道はもう出来上がっていたのだ。

 シシーのソロ・アルバム『Think It Over』(78年)にコーラスで参加したのが15歳の時。同年にはマイケル・ゼイガー・バンドの“Life's A Party”にもフィーチャーされ、以降は母といっしょにクラブやスタジオに出入りするようになっていく。17歳になると、洗練された美貌を活かしてファッション誌のグラビアにも登場しているが、やはり本分は決まっていたのだろう。主にNYのクラブでパフォーマンスを続けながら、彼女はネヴィル・ブラザーズのアルバムに参加したり、ビル・ラズウェルのプロジェクト=マテリアルでソフト・マシーンのカヴァー“Memories”(82年)に挑戦したり、いまにして思えば意外な顔ぶれの作品でも下積みを続け、デビューの機会を窺っていたようだ。そんななか、NYでホイットニーのステージを目にしたのが、当時のアリスタ社長、クライヴ・デイヴィスである。83年、20歳になったホイットニーはアリスタと契約した。

 彼女が全米デビューを果たしたのはTV番組「The Merv Griffin Show」だったが、この際にもクライヴがエスコート役を務めている。ただ、惚れ込んだアーティストは本気で売るというポリシーを持つクライヴだけに、デビューまでのプランは周到だった。まずはジャーメイン・ジャクソンのアリスタ移籍作で、そして事故に遭ったテディ・ペンダーグラスの復帰作(いずれも84年)でそれぞれ彼女をデュエット・パートナーに抜擢させたのだ。こうした仕込みの合間にもクライヴは慎重に楽曲選びを行い、最終的にファースト・アルバム『Whitney Houston』のリリースは85年2月まで持ち越されている。苦心の甲斐あって、3枚目のシングル“You Give Good Love”はR&Bチャート1位/全米3位というビッグ・ヒットを記録。続いての“Saving All My Love For You”が初めて全米チャートを制すると、足掛け4年に渡って7曲連続で全米No.1を獲得するという離れ業を達成している。あとは数字の話だ。資料によれば、彼女はアルバム7作連続で(USだけで)マルチ・プラチナを記録した唯一のアーティストだそうで、グラミーやエミー賞など各アワードの受賞回数がもっとも多い(411回)女性アーティストとしてギネスブックに認定されてもいる。明快なのは初出演した映画「ボディガード」の主題歌“I Will Always Love You”(92年)だろう。これはUSの音楽史上最大のセールス(400万枚)を上げたシングルだ。同曲を含むサントラとなると、全米だけで1700万枚も売れたのだ(ワールドワイドでは4200万枚)。つまり、少なく見積もってもそれらの枚数のぶんだけ、彼女のお嬢様然としたコンサバなイメージは人々の意識下に広がっていたということになる。

▼デビュー前のホイットニーをフィーチャーした作品。

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