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特集

WITH A CHILD'S HEART スティールタウンの天才少年(3)

カテゴリ : フィーチャー

掲載: 2009年08月26日 18:00

更新: 2009年08月26日 18:21

ソース: 『bounce』 313号(2009/8/25)

文/林 剛

バブルガム・ソウル

  当時のモータウンは本社をデトロイトからLAに移す準備に取り掛かっており、音楽的にもデトロイト・サウンドからの脱却を図っていた。そんな過渡期に迎え入れられたJ5だったが、彼らは父ジョーの猛特訓やツアー経験のおかげで、社内アドヴァイザーを務めたスーザン・デパッセ女史の介入も必要としないほどパフォーマーとして完成されていた。そして何より、マイケルという強力な少年ヴォーカリストがいた。モータウン社長のベリー・ゴーディJrとしては、LAモータウンの門出に相応しい、確実にヒットを狙える(新人だが)大物として彼らを迎え入れたのだろう。その熱の入れようは、ゴーディみずから率いる音楽制作チーム=コーポレーションがプロデュースに乗り出したことからも窺える。もっとも実際は、専属作家の退社や休業、多忙といった社内事情から仕方なくプロデュースにあたったのだが、しかしこれが大当たり。当初グラディス・ナイト&ザ・ピップス用に作っていた“I Wanna Be Free”という曲を改作した“I Want You Back”がいきなり全米1位に輝き、J5は幸先の良いスタートを飾った。

 その後、ダイアナ・ロスが発掘したというニュアンスを持たせたファースト・アルバム『Diana Ross Presents The Jackson 5』(69年)を発表。現在では実際にダイアナが〈発掘〉したわけではないということも判明しているが、モータウン入社直後からJ5がダイアナ邸に住まうなどして手厚いサポートを受けていたことも事実で、このタイトルは必ずしもデッチ上げとは言えない。いずれにせよ、J5はそれだけ社運を賭けたプロジェクトであったわけだ。


  また、映画/映像作品にも力を入れはじめていたモータウンにとって、アフロヘアの男の子たちが華やかに歌い踊る姿はヴィジュアル的にも文句なしだった。71年に凱旋帰郷を追ったTV番組とそのサントラ盤『Goin' Back To Indiana』が企画されたのも、そんなJ5ならではと言える。と、こうしてTV番組などへの露出を図りながらプロモーションを展開。内気でシャイな少年が精一杯に明るく振る舞って歌う、その愛くるしい姿に誰もが釘付けになったのだろう……結果、(時代は前後するが)“I Want You Back”に続いて、“ABC”“The Love You Save”“I'll Be There”の各シングルが全米ポップ/R&B両チャートで1位を記録。まさに人種を超えて支持される〈アメリカン・アイドル〉となったわけだが、いま思えばこれは、80年代に『Thriller』収録曲のPVがMTVで放映され、No.1ヒットを連発した時の状況と非常によく似ている。マイケルはJ5時代からヴィジュアル・メディアの恩恵を受けていたのだ。

 70年には、『ABC』『Third Album』『The Jackson 5 Christmas Album』といった3枚の秀作をリリース。マイケルのキッズ声が炸裂する〈バブルガム・ソウル〉とも称される時期のアルバムだ。しかし、バブルガム(ポップで親しみやすいが、風船ガムのようにアッという間に消えてなくなる音楽という皮肉も孕んでいる)とはいえ、J5の曲、そしてマイケルの歌は、子供っぽいけど子供離れした大人顔負けの表現力を持つクォリティーの高いものだった。翌71年に大ヒットした“Never Can Say Goodbye”はそれを見事証明した名曲と言っていいだろう。

 そうした豊かな(繊細な)ヴォーカル表現を武器に、マイケルは71年に“Got To Be There”でソロ・シンガーとしても活動を開始。ソロではグループ時よりも愁いを含んだ曲を一途に歌い上げるというスタンスを基本にして、“I Wanna Be Where You Are”“Ben”といったナンバーで大人のハートをも掴んでいった。同時にJ5の作品もその色合いを強めていく。ただ、身体的にも精神的にも大人になりつつあったマイケルは自我に芽生え、モータウンのやり方が徐々に窮屈なものに思えてきたともいう。もはや子供扱いできなくなってしまったというわけで、コーポレーションとの共同作業もJ5の73年作『Skywriter』を最後に終了。声変わりという難題を抱えながら新たな時代に突入していくのだった。

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