矢沢永吉(2)
キャロルでの成功とスーパースターへの道
68年春、高校を卒業してすぐに単身上京。〈京〉とはいいつつ、降り立った駅は偶然か必然か、横浜。当時の横浜は日本でもっともアメリカに近い街のひとつであり、仮に品川ナンバーの車で乗り付けようものならたちどころにシメられるような、独自性に溢れたヒップな街であった(と、実際にシメてたという人から聞いたので間違いない)。
劣悪な環境の仕事に就き、レコード会社への売り込みもあえなく玉砕したが、ザ・ベース→イーセットとバンドをグレードアップさせながら、横浜~横須賀エリアで活動を重ね、人気を得ていく。しかし、矢沢の〈本気〉とメンバーのギャップは埋め難く、デビューを目論んでイーセットを発展させたバンド、ヤマトは解散。ここで彼は音楽活動の拠りどころを一度、失ったのだった。
その頃すでに家庭を持っていた矢沢は、生活を維持すべくアイスクリーム屋のバイトに就きながらも、心は折れていなかった。自身で作ったメンバー募集の貼り紙から、新しいバンドが生まれることになる。それこそが、キャロルだ。
キャロルは先鋭的な音楽(例えばパンク、例えばヒップホップ)の例に漏れず、耳の早い連中=不良の心を鷲掴みにしたのと同時に、いわゆるギョーカイにも多数のシンパを生んだ。詳細は別項に譲るが、72年、バイカー・ファッションに身を包み、ハンブルグ時代のビートルズを彷彿とさせるロックンロール・ナンバーを日本語で歌うバンドが登場した――これがどれだけの衝撃だったことだろう! モリッシーでいうところの〈ニューヨーク・ドールズ愛〉に勝るとも劣らない〈キャロル愛〉が、どれだけの日本人の胸に刻まれたことか。〈渋谷系〉に先立つこと20年、同時期に登場したサディスティック・ミカ・バンドと共に〈世界的な同時代性〉を体現したバンドとして、キャロルはもっと評価されて良い。
しかし、センセーショナリズムに裏付けられたムーヴメントは、そうそう長く続くものではない。言ってしまえばでっかいパーティーのようなものだ。矢沢の本意は、パーティーの開催ではない。ここでもまた、彼の〈本気〉と周囲とが埋めることのできないギャップを生み出してしまう。その結果、キャロル解散。75年4月13日、日比谷野外音楽堂でのライヴが、生のキャロルの最後となった。
バンドの解散が決定的になる頃、矢沢はすでに次のアクションを起こしていた。アメリカのプロデューサー、トム・マックとコンタクトを取り、ソロ・アルバムのLAレコーディングの準備を進めていたのだ。キャロル解散直後の75年5月に渡米し、LAのA&Mスタジオでファースト・ソロ・アルバムを録音する。しかし、レコード会社の移籍やスタッフの一新などで〈元キャロル〉の冠を完全に外したなか、6月にリリースされた『I LOVE YOU, OK』は、〈キャロルのネクスト〉を期待していたファンやメディアに少なからぬ戸惑いを与えた。もちろんこのアルバムがキャロル・サウンドになるわけもなく。このバンドによって矢沢はビートルズと同じ〈音楽でメシを喰う〉という土俵に上がった。もしかしたら彼は、キャロルによる『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』(ひとつの到達点)や『Let It Be』(メンバーシップの崩壊、つまり幕引きをきちんと記録する)を残したかったのかもしれない。しかし、矢沢と周囲とでは意識の齟齬がありすぎた。だったら自分でネクスト・ステップに進むしかない。ソロにおける彼のロックンロールとは、より官能的な歌と曲を、それに見合ったリッチなサウンドで聴かせることに他ならなかった。
勢力的にツアーをこなしながら、セルフ・プロデュースによる76年6月の『A DAY』、77年4月の『ドアを開けろ』と作品を重ねるにつれ、目標である〈スーパースター〉への階段を着実に昇って行く。8月には日本人アーティストとして初の日本武道館公演も成功させた。つまり、矢沢は間違っていなかったのだ。決定的だったのは78年、お茶の間レヴェルで大反響を生んだTVCMソング“時間よ止まれ”が収録されたアルバム『ゴールドラッシュ』と、激論集「成りあがり」のミリオン・ヒットである。比喩ではなく日本全国の〈友達の兄貴のレコード棚と本棚〉に必ずあったこの2作により、彼は名実共にスーパースターとなり、長者番付の歌手部門で1位を獲得するほどの存在になっていた。