Elvis Costello(2)
こいつは変わってて最高だ!
彼の本名はデクラン・パトリック・マクマナス。54年にロンドンのパディントンで生まれた。なお、〈コステロ〉とは母親の旧姓だ。レコード・ショップの経営者でもあるその母は、デクラン少年にジャズやクラシックなどさまざまな音楽をデリヴァリーしていた。そして父親ロク・マクマナスは、名の知れたジャズ・ミュージシャン(91年作『Mighty Like A Rose』などコステロ作品にも参加している)。アイルランドや南米のフォークも好きだったという父からもしっかりと音楽指南を受けて育つことに。そんなビートニクな両親の離婚をきっかけに、デクランがリヴァプールへと移り住むのは11歳の時。ちょうどビートルズ旋風が吹き荒れていたその街で、ランディ・ニューマンやザ・バンドなどのアメリカン・ロックをゴクゴクと呑み込みながら青年期を迎える。そして学校を卒業後にロンドンへ。目的は音楽をやるためだ。初めて組んだバンドの名はフリップ・シティ。大好きだった先輩バンド、ブリンズリー・シュウォーツに似たアーシーなサウンドを持ち味とするこのパブ・ロック・バンドはそこそこの人気を得るも、すぐに解散。間もなくソロの道を歩みはじめることとなる。
77年3月、ソロ・シングル“Less Than Zero”のリリースに際し、デクランに〈エルヴィスって名前がいいんじゃない?〉と提案したのは、デモテープを聴いて才能を見抜いたスティッフのレーベル・オーナー、ジェイク・リヴィエラだった(ちなみにコステロという名義はこの時すでに使用していた)。また、〈こいつ変わってて最高だ!〉と大プッシュしたのは、同年7月発表のファースト・アルバム『My Aim Is True』をプロデュースする元ブリンズリー・シュウォーツのニック・ロウ。最初のパンク・ロック・アルバムと呼ばれるダムドの『Damned, Damned, Damned』を世に送り出したこの両者が手掛けた新星とあって、コステロもその文脈で語られる存在となるのであった。
さて、ここでコステロ本人とパンク・ブームの関係について。ある日、いま流行っているレコードということでクラッシュとセックス・ピストルズを買ってきて、フムと考えた彼。自分の好きな音楽(ランディ・ニューマンやザ・バンドなど)は時代遅れと呼ばれかねないから、初っ端のアルバムではトゲの立った曲を出そう、と決心したらしい。こうして曲のテンポを速め、荒々しさを前面に出した結果、異端のパンク作品『My Aim Is True』が誕生することとなる。
同作のバックを務めたのは、カリフォルニアのバー・バンド、クローヴァー(ヒューイ・ルイスの仲間たちで、ザ・ニュースの前身)。アメリカン・ローカルなサウンドとロンドンの空気とのマッチング、爽やかなコーラスとコステロの熱血歌唱のコントラストなど、そこには斬新な響きが存在している。しかしそれ以上に斬新だったのが2作目『This Years Model』(78年)だ。ここでコステロは長年連れ添うこととなるバンド、アトラクションズと出会ったという。スッ転びそうなビートにひん曲がったギターとキーボードの音色──負け犬気質を歌詞に滲ませたポップソングが、そんなフリーキーな演奏と相まってパンクなムードを創出、型破り度は前作よりも数段アップした。なお、同作発表直後の78年11月には初来日公演が実現。〈今来日公演中〉という横断幕を付けたトラックにメンバー一同で乗り込み、銀座の歩行者天国でゲリラ・ライヴを行って警察沙汰に……というイイ話を残す(コステロにとっては楽しい思い出のようだ)。
その後、メロディアス&ポップな方向に進んだ『Armed Forces』(79年)、往年のリズム&ブルースやブリティッシュ・ビートなどルーツ確認を実践した『Get Happy!!』(80年)と勢いのままにパワフルな作品を連発。かと思えば、いきなり陰鬱ムードを漂わせた『Trust』(81年)、ナッシュヴィルを訪れてカントリーに挑戦した『Almost Blue』(81年)、ストレートなビートルズ・オマージュや“The Thrill Is Gone”を下敷きにしたバラード(すでに老成ぶりを発揮している)などが入った実験色の濃い『Imperial Bedroom』(82年)と、次第にアルバムごとの表現の振幅が激しくなる。〈肩透かしのうまいのがコステロだ〉なるイメージが広がりはじめたのもこのあたりからだ。
ところが、80'sらしいライトなサウンドがひしめく煌びやかな『Punch The Clock』(83年)と、続く『Goodbye Cruel World』(84年)を作り終えたところで、少し自身の見直し作業に入ったコステロ。その2作品ではアレンジに凝りすぎて歌の芯がぼやけてしまっていたという反省材料が生まれ、アコースティック・サウンドを基調としたアメリカン・ルーツ音楽の追求を試みる。それが、T・ボーン・バーネットを相棒に迎え、ジェイムズ・バートンやミッチェル・フルームらをゲストに招いてハリウッドで制作された『King Of America』(86年)だ。同作では新たな芸名=コステロ・ショウを名乗っているのだが、それにしてもこれまででもっとも裸に近い作品と言えるアルバムで、こんなヘンな名義を名乗ってしまうあたりがひねくれ者の彼らしいと言わざるを得ない。そして『King Of America』の完成後、すぐにワイルド&ラウドなロックンロールをブチかます『Blood & Chocolate』(86年)を録音。そんなバイオリズムもまたコステロっぽさなのだった。
▼エルヴィス・コステロの作品を紹介。
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