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特集

The soulful roots of Marvin モータウン以前、マーヴィンの根底にあった音楽とは

カテゴリ : フィーチャー

掲載: 2009年05月07日 11:00

更新: 2009年05月07日 17:31

ソース: 『bounce』 308号(2009/3/25)

文/林 剛

 本文でも触れたように、10代のマーヴィンは地元ワシントンDCにあるハワード・シアターで、サム・クックらR&Bスターのライヴを浴びるように観て刺激を受けていた。レイ・チャールズやリトル・ウィリー・ジョンといったパッション溢れる歌い手に憧れたのもこの頃。同時にフランク・シナトラやナット・キング・コールといったポピュラー歌手にも憧れ、彼らのクルーナー唱法を学んでいたというのも、いまや有名な話だ。

 そうして世俗音楽に触れるようになった時、マーヴィンがとりわけ夢中になったのはドゥワップだった。高校時代には、ステイシー・ラティソウの母親もいたとされるDCトーンズなるグループを組んでいたことも伝えられており、そこでマーヴィンはピアノを弾いていたという。これがレインボウズになり、さらにその後マーキーズに改名したというのが有力な説だ。地元で評判になったマーキーズは、DCにやってきたボ・ディドリーと出会い、彼のバックアップで57年にオーケーからシングルを発表。“Wyatt Earp”(カップリングは“Hey Little School Girl”)という曲がそれで、マーヴィンはセカンド・テナーを担当していたようだ。その後、ボの所属するチェスの仲間だったムーングロウズのハーヴェイ・フークアが、解散の危機に瀕していたグループの立て直しをボに相談し、マーキーズを新メンバーとして迎えていることに。そうやって生まれた新生ムーングロウズは、マーヴィンがリードを取った“Mama Loocie”など4枚のシングルをチェスからリリースした。実父ともベリー・ゴーディとも2人の妻とも上手くいかなかったマーヴィンだが、『Midnight Love』(82年)で制作の手助けをしたフークアには、アルバムの最終曲“My Love Is Waiting”で謝辞を述べるなど、彼とだけは最後まで親密な関係が続いたのだ。マーヴィンが完璧主義者の一面を開花させたのもフークアの影響だったというが、それもこれもボ・ディドリーが繋いだ縁だと思うと、何とも感慨深いものがある。
▼関連盤を紹介。


ボ・ディドリーのボックス・セット『The Chess Box』(ユニバーサル)

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