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How sweet is it?(3)

カテゴリ : フィーチャー

掲載: 2009年05月07日 11:00

更新: 2009年05月07日 17:31

ソース: 『bounce』 308号(2009/3/25)

文/林 剛

DCからシカゴ、デトロイトへ

 高校生になる頃には世俗音楽に夢中になり、地元DCでR&Bのライヴを観まくっていたというマーヴィン。サム・クックを観た時などは、サムの世界に没入したいがために、しばらくの間、友人や家族との接触を避けたともいう。よく言えば芸術家肌といったところだが、これは内向的で夢想家とされた、いかにもマーヴィンらしいエピソードだ。55年に高校を中退した後は空軍に入隊するが、反抗的な性格が災いしてか、2年ともたずに除隊となったという。

 地元DCに戻ったマーヴィンは、ドゥワップ・グループのレインボウズに参加。マーキーズと改名した彼らは地元で評判を集め、57年にはオーケーからシングルを出している。その後、ムーングロウズのハーヴェイ・フークアが分裂状態だったムーングロウズを一新すべく迎えたのがマーキーズの面々で、マーヴィンは父に猛反対されながらもシカゴに移住。59年のシングル“Mama Loocie”ではリードを取り、滑らかで情熱的なテナーを聴かせた。マーヴィン、20歳の時のことだ。が、程なくしてグループは解散し、マーヴィンはフークアに連れられ、ベリー・ゴーディの姉アンナとグウェンが主宰するレーベル=アンナと接触を図るべくデトロイトへ向かう。ここでマーヴィンは、後に妻となる17歳年上のアンナと出会うわけだ。

 アンナ・レーベルはやがて倒産するも、今度は夫婦となったフークアとグウェンがトライ・ファイを設立。マーヴィンは、そこから登場したスピナーズの“That's What Girls Are Made For”(61年)でドラムを叩くなどしていた。が、結局トライ・ファイも倒産。半ば縁故入社に近い形でマーヴィンはモータウン・ファミリーの一員となるのだが、その当初はドラムやピアノの才能を活かしてセッションマンとしての仕事もこなしていたという。

 では、シンガーとしてのマーヴィンは?ということだが、60年にモータウンのパーティーで歌ったコーデッツの“Mr. Sandman”(この曲は62年に2枚目のシングルとしても吹き込まれた)を社長のベリー・ゴーディに気に入られ、その1年後にはソロ・デビューに漕ぎ着けている。同じ年には初のアルバム『The Soulful Moods Of Marvin Gaye』も発表。これはマーヴィンの希望に沿ってジャズやポップスのスタンダード曲を歌う作品となったが、そもそもマーヴィンは、フランク・シナトラやナット・キング・コールのようなスタイルでロマンティックなラヴソングを歌うことを夢見ていた。一説によれば、R&Bシンガーのような激しい踊りができず、コンプレックスを抱いていたためとも言われるが(それがステージ恐怖症の一因だったとも)、自身のソフトで紳士的な口調に近い歌声で歌うことをマーヴィンは望んでいたのだ。

 そんな意向もあって60年代のマーヴィンは、デビュー作以降も『When I'm Alone I Cry』に『Hello Broadway』(共に64年)、そして『A Tribute To The Great Nat King Cole』(65年)といったスタンダード/バラード集をR&Bアルバムと並行してリリースしている。が、チャートの成績はどれも惨敗。白人客相手にポピュラー・ソングを披露した66年録音のライヴ実況盤『At The Copa』(2005年に陽の目を見た)を、当時モータウンがお蔵入りにしたというのも無理はない。それでもポピュラー・ソングを歌いたかったというマーヴィンの思いは、死後に発表された『Romantically Yours』(85年)や『Vulnerable』(97年)といった蔵出し作品集からも伝わってきたものだが、本人の理想とは裏腹に、世間から評価されたのは〈R&Bを歌うマーヴィン〉だった。

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