The Prodigy(3)
スランプと解散の危機を乗り越えて
ところがそれ以降の彼らは、ツアーの疲労と制作面でのスランプによって完全に沈黙。2000年にはリロイが脱退し、マキシムがソロ作を発表したこともあって、バンドの解散説が流れるようになる。2002年にようやくリリースされたシングル“Baby's Got A Temper”が酷評されるなか、マキシムに続いてキースも自身のバンド=フリントを始動。バンド内の関係性がますます不安視されるなかで話し合いが持たれ、リアムがひとりでレコーディングを行うことが決定する。2004年に登場した4作目『Always Outnumbered, Never Outgunned』は多くのゲスト・シンガーやラッパーをフィーチャーしたものとなった。
「2003年、2004年かな。バンドはほとんど解散してしまいそうな状態までいった。パラノイアになっていたって感じかな」(リアム)。
「一心不乱に12年間ツアーしてきて、離れることも必要となった。でもその隙間が大きくなりすぎたんだ。俺がソロの作品を作ろうとしたことは良くなかったよ。リアムが次のアルバムの曲を書こうとしてた時に俺は自分のソロの曲を作っていて、〈スタジオに入ってるから、木曜日には行けない〉って言っていたんだ」(キース)。
サウンドにバラツキがあり、従来のプロディジー色は薄いものの、同作はいま思えば早すぎたエッジーなエレクトロ・アルバムとして評価できる。そして、そこに収録されたある曲がキースをふたたびバンドへと引き戻すきっかけになったという。
「リアムが“Spitfire”を聴かせてくれた時、俺の頭はノックアウトされたんだ。それで〈俺はここで何をしてるんだ?〉と考え直して、すべてを片付けてプロディジーに戻った。俺の心がこのバンド以外のどこにも所属していないことを確信したんだよ。確かに『Always Outnumbered, Never Outgunned』の時にバンドは最高の状態じゃなかった。でも、どう修正したらいいかももうわかっていたし、心配はしてなかった。だけどこの弱点につけこもうとしたヤツがいたんだよ」(キース)。
「主に自分の陣営にいた人間だよ。でも、俺たちは解散しなかった。それで新作のタイトルは『Invaders Must Die』になった。だから、これは俺たちにとってとても意味のあるタイトルなんだ」(リアム)。
そして彼らはシングル集『Their Law: The Singles 1990-2005』リリース後のツアーを経て関係を修復。3人でスタジオに入り、レコーディングを開始する。そのなかで生まれたのが、いち早くライヴでプレイされて〈レイヴ回帰〉の旗頭となった“Warrior's Dance”と“World's On Fire”だ。
「“Warrior's Dance”が転機になった曲だった。いろいろと試していて4か月経った頃に、ちょうど〈Gatecrasher〉ってフェスがあって、〈アシッド・ハウス誕生20周年記念〉をインスピレーションにしてそのギグ用に“Warrior's Dance”を書いたんだ。〈アルバムの曲を書かなくちゃ〉ってことは考えてなかったから、あっという間に書けた。おかげでその後の曲が次々と完成していったよ」(リアム)。
“Warrior's Dance”のサンプリング・ソースはデトロイト・テクノのリヴィング・レジェンド、ジェフ・ミルズの別名義=トゥルー・フェイスの名曲“Take Me Away”。初期レイヴの名曲を使ってかつてのサウンドを復活させたところに、リアムのレイヴ・カルチャーに対するプライドを感じることができる。
「オリジナルのレイヴ・サウンドは俺たちそのものなんだ。それはリアルで本物のブリティッシュ・カルチャーだ。だから、俺たちは当時に戻って、そこから何かを使って表現する権利を持っているんだよ」(リアム)。
▼マキシムのアルバム。
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