The Cure(2)
カルト・スターからポップスターへ
すべてが始まったのは76年のこと。英国南部のクロウリーという街で、ロバートを中心とする4人のティーンエイジャーがイージー・キュアーを結成。2年後にはキュアーと名前を短縮して、78年末にフィクションからシングル“Killing An Arab”でデビュー。翌年にはファースト・アルバム『Three Imaginary Boys』をリリースする。しかし、このアルバムはスタッフやレーベル主導で制作されたためロバートにとっては不満が残ったらしく、バンドのシグネチャー・サウンドが顕在化するのは、彼が共同プロデュースした80年の2作目『Seventeen Seconds』以降だ(以来ロバートは全作品のプロデュースに関わっている)。キーボードを編成に加えて浮遊感溢れるムーディーなサウンドを打ち出した同作で全英TOP20入りをを果たし、81年にはメランコリックな趣をいっそう強めた3作目『Faith』を発表。詞には死や孤立感といった重苦しいテーマが目立ちはじめ、82年の『Pornography』に至っては、一連の傾向が極限まで押し進められていた。
〈首吊りの庭〉〈血ぬられた100年〉といった収録曲の邦題が物語っているように陰鬱極まりないこのアルバムは、初期の傑作としてファンに愛されている。こうしてダーク・サイドを極めたキュアーは、バウハウスやスージー&ザ・バンシーズと並んでゴシック・ロックの立役者に祭り上げられるのだが、『Pornography』発表から半年後には一転してポップな路線を歩むようになった。ロバートは当時の英国で流行していたエレクトロ・ダンス・ポップの流れを汲む曲を書きはじめ、82年末から相次いでリリースした3枚のシングル“Let's Go To Bed”“The Walk”“The Lovecats”(すべて83年のEP『Japanese Whispers』に収録)もチャートを駆け上がり、なかでも“The Lovecats”が初のTOP10入りを記録。これを受けて大規模なツアーを敢行し、84年には初の来日公演も行っている。また、70年代末から断続的にバンシーズでギターを弾いていたロバートは、83年にそのベーシストであるスティーヴ・セヴェリンとグローヴ名義で『Blue Sunshine』を発表。しかし表現の場を広げたことで次のアルバム『The Top』(84年)ではアイデア不足に悩み、メンバーを入れ替えて立て直しを図るのである。
5人編成の新生キュアーが作り上げた85年作『The Head On The Door』と87年の2枚組『Kiss Me, Kiss Me, Kiss Me』は、共にバンド・アンサンブルを活かした変化に富んだ作品で、音楽的にもセールス面でも黄金期に突入。この時期のシングル――“Close To Me”や初の全米TOP40入りを果たした“Just Like Heaven”――に象徴される幻想的なアコギの音色にロマンティックな歌詞を乗せた楽曲群は、バンドの定番サウンドに新たなヴァリエーションを加え、キュアーはさらにファンを増やすこととなる。ツアーの規模も年々拡大するなか、89年には最高傑作との呼び声も高い『Disintegration』を発表。ふたたび鬱蒼とした空気に覆われたこのアルバムは、世界で250万枚のセールスを叩き出し、キャリア最大のヒットとなった。長年のカルト・ステイタスから抜け出して異色のスタジアム・バンドに成長した彼らは、91年に満を持して〈ブリット・アワード〉の最優秀ブリティッシュ・グループ賞を獲得。続く9作目『Wish』(92年)で全英初登場1位/全米初登場2位とチャート記録を更新し、米国ではオルタナ・ブームの追い風を受けて支持層を拡大。地元では、95年に〈グラストンベリー・フェス〉の大トリを務めている。
その後、またもやラインナップをシャッフルし、再編の混乱の最中に完成させた96年の『Wild Mood Swings』を経てケミストリーを練り直し、『Pornography』『Disintegration』と共に3部作を成す『Bloodflowers』(2000年)を完成。初めてグラミー賞候補に挙がり、リリース後に始まったツアーではのべ100万人を動員するのだが、99年に40歳の誕生日を迎えていたロバートはバンドの解散をたびたび示唆するようになる。2001年には25年間の活動を総括するベスト盤『Greatest Hits』がお目見えし、所属レーベルのフィクションが消滅したこともあって、バンドの将来を巡って不安が広まっていった。
▼キュアーの作品を紹介。
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