ZEEBRA(2)
気付け/築け
71年生まれのZEEBRAは、小学生時代にはすでにヒップホップの洗礼を受けていたらしく、相当に早熟な少年だったよう。アメリカで生活する機会もあったことで若くして現地のロウなヒップホップ・シーンをリアルに体感したことが、彼のヒップホップ観やスタイルに大きく影響を与えたのだろう。ファースト・アルバム『空からの力』(95年)やSaga Of KG名義でのコンピ参加、その名を広めた客演仕事であるRHYMESTER“口から出まかせ”などなど、キングギドラのデビューは鮮烈なものだったが、それらの作品リリースよりも以前に、あの伝説的なTV番組「Yo! MTV Raps」にまったく無名の存在にもかかわらず(ゲリラ)出演していた……というのも、USのシーンを常に意識してきたZEEBRAらしいエピソードかもしれない。ヒップホップ・マナーに忠実な立ち居振る舞いでみずからがインスパイアされてきた(特にオーヴァーグラウンドの)USヒップホップ・スタイルを継承し、伝承していくZEEBRAに対しては、日本的な常識の範疇から外れる言動や行動を快く思わない向きもあったのかもしれないが、そんなことをいちいち恐れるでもなく己のスタイルを貫きとおし、ヒップホップに最大限のリスペクトを表しながらZEEBRAは道なき道を切り拓き続けていくことになる。
話しは戻って──高校を早々とドロップアウトし、まずはDJとしてヒップホップに足を踏み入れたZEEBRAだが、ラップにも興味を抱いてマイクを持つようになり、幼馴染みのDJ OASISと88年にPOSITIVE VIBEを結成(ここがラッパー生活のスタートとなり、今年で20周年ということなのだ)。当初はUSでの活動を視野に入れてリリックをすべて英語で書いていたということも、ZEEBRAにしてみれば至極あたりまえのことだったのかもしれない。その後、以前からの顔見知りであり、独特な押韻を駆使して日本語のリリックを書いていたK DUB SHINEと再会したことで、ZEEBRAも日本語のリリックを書くことを決意。そして誕生したのがキングギドラだ。先述した〈さんピンCAMP〉直前の95年、沸々と地下で沸騰するマグマのように静かなる熱気を帯びていたシーンの真っ只中に、彼らはファースト・アルバム『空からの力』を投下。このアルバムにおける押韻をキモとしたハイレヴェルなラップ技は当然シーンに多大な影響を与えたのだが、綴られるトピックも“大掃除”や“空からの力”に代表されるサッカーMC/セルフ・ボーストものをはじめ、“行方不明”でのバック・イン・ザ・デイ調、“真実の弾丸”での強いメッセージ性など、まさにヒップホップ・マナーに沿ったものばかりであり、多くの洋楽ヒップホップ・ファンに日本語ラップを聴くきっかけを与えることとなった。
さらに、昨今では例えばゲームが得意とするネーム・ドロップ──自身が影響を受けたアーティストや楽曲、そのパンチラインをサラリとリリックへ引用する術──にも彼らは非常に長けていた。それはソロ転向後のリリックでより顕著になるのだが、KRS・ワンに強く影響を受けたというZEEBRAなりの、まだまだ未成熟な日本のシーンへのエデュテイメント(教育:エデュケーション+娯楽:エンターテイメント)だったのだろう。事実、インターネットがようやく普及しはじめたくらいの時代だっただけに、ZEEBRAのような信頼に足るラッパーの言葉(リリックのみならず雑誌やラジオなどメディアでの発言も含む)によってヒップホップ・ゲームに深く関心を抱いた輩も少なくなかったはずだ。
そんなスキル面などでのギドラ~ZEEBRAのシーン内への影響力も凄まじかったのだが、前述したようにアンダーグラウンドな存在だった日本のヒップホップの魅力を、みずからが身を投じることで、薄めることなくメジャー・フィールドへ(さらには〈芸能界〉と呼ばれるあたりまで)積極的に紹介していったこともシーンにとっては大きな一歩となり、ギドラ以降のヴァーサタイルにシフトした彼の活動が、日本のヒップホップをネクスト・レヴェルへと導いていくこととなる。そのギドラ活動停止後にはUZI、T.A.K THE RHYMEHEAD、INOVADOR、DJ KEN-BOらを率いて自身のクルー=URBARYAN GYM(UBG)を率い、T.O.P. RANKAZなるユニットを結成。自身が成功すれば仲間をフックアップ、というのもまさにヒップホップのマナーだが、軽やかなフットワークで次々と膨大な客演仕事をこなしてソロとして名を売っていく様もまた然り。多方面から客演オファーが殺到しはじめたこの時期、Sugar Soul“今すぐ欲しい”に象徴されるナンパなスタイルも披露することで、ギドラでのハードコアなイメージを難なく覆したのだった。
▼ZEEBRAの客演した作品。