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Talking Heads(2)

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2008年12月11日 11:00

更新: 2008年12月11日 17:35

ソース: 『bounce』 305号(2008/11/25)

文/村尾 泰郎

生活とアートを同じ地平に並べて……

 実際、トーキング・ヘッズとアートとの関係は深い。後にバンドの顔となるデヴィッド・バーンは52年にスコットランドで生まれ、8歳の時にアメリカはメリーランドへと渡ってきた。10代の頃はフォーク・デュオを組んでウクレレを掻き鳴らしたりしていたらしいが、大学へ進学するにあたって芸術系か理系かで悩み、ロードアイランド・デザイン学校(RISD)に進学する。このRISDは全米の美術学校のなかでも、もっとも古い歴史を誇る名門中の名門。しかし、学校の授業に幻滅したバーンはたった1年で中退してしまう。そんな彼にとっての唯一の救いは、RISDでバンドをやっていたクリス・フランツと知り合えたことだった。やがて2人は74年にアーティスティックスというバンドを結成する。しかし、クリスが学業に専念するようになると、バーンは可能性を求めて単身NYに移住。そこで彼が暮らすこととなったロフトの目と鼻の先には、パンク・シーンを生んだ伝説のライヴハウス、CBGBがあったのである。

 バーンは、テレヴィジョンやパティ・スミスなどCBGBに出演するバンドをつぶさに観察して、自分のバンドのコンセプトを練りはじめる。例えば、いかにもワザとらしいギター・ソロをやめる、普段着でロックを演奏することで生活とアートを同じ地平に並べてみる、などなど。そして、大学を卒業したクリスが恋人のティナ・ウェイマスとNYにやって来た時、バーンは温めていたアイデアを実行に移した。3人はバンドを結成すると、バーンがギターを弾きながら歌い、クリスがドラムを叩き、素人のティナはベースを覚えた。そして、〈会話中のクローズアップ〉を意味するTV用語〈トーキング・ヘッズ〉を名乗り、共同生活をしながら入念にリハーサルを繰り返していったのである。75年、バンド結成から半年後に初めてCBGBに出演した時、すでにトーキング・ヘッズのスタイルは完成されていたという。

 間もなくCBGBの常連になった彼らが、当時よく対バンしていたのがラモーンズだった。革ジャンを着て爆音で疾走するラモーンズと、休日の学生みたいな服装で淡々と演奏するトーキング・ヘッズ。その組み合わせは対照的で、すぐにヘッズは話題になったが、なかでも評論家筋からのウケが良かった。ただ、そのおかげで〈パンクを利用した頭でっかちのアート・バンド〉というイメージが付いて回るようになり、以降、その文句は長きに渡ってバンドを辟易させることに。というのも、ソウル・ミュージックに影響を受けていた彼ら(初のヒット曲はアル・グリーン“Take Me To The River”のカヴァーだった)がめざしたのは、ファンクのようにミニマルな演奏でグルーヴを生み出すことであり、その点、〈パンク界きってのミニマリスト=ラモーンズ〉とは通じるものがあったし、何より3人は演奏することを心から楽しんでいたのだ。彼らはロック界のマッチョ主義に攻撃されながらも、わが道を貫いて早々にメジャーと契約し、元モダン・ラヴァーズのジェリー・ハリスン(キーボード)をメンバーに迎えてファースト・アルバム『Talking Heads: 77』(77年)を発表。このアルバムを聴いてバンドに興味を示したのが、コンピ『No New York』をプロデュースするなど、NYパンク/ノーウェイヴ・シーンに注目していたブライアン・イーノだった。

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