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特集

Primal Scream(2)

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2008年07月31日 10:00

更新: 2008年07月31日 17:39

ソース: 『bounce』 301号(2008/7/25)

文/妹沢 奈美

太陽よりも高みをめざして

 では、ひとつひとつ紐解いていこう。現存する唯一のオリジナル・メンバーであるボビー・ギレスピーが生まれたのは61年。幼い頃から父親の持つローリング・ストーンズやビートルズのレコードに親しんでいた彼は、10代に入って学校でアラン・マッギー(後のクリエイション・レーベル創始者)と知り合い、さらに音楽に傾倒していく。時はあたかもパンク勃興期。クラッシュやジャム、ジョイ・ディヴィジョンなどのライヴを、出身地であるグラスゴーで体験する。また、この頃に現在もプライマルのメンバーであるアンドリュー・イネスと出会い、マッギーとボビーは彼の組んでいたバンドに加入。その後、親友であるイネスとマッギーがロンドンに移住し、82年にその空白を埋めるべく友人のジム・ビーティと自宅でのセッションを始めた。これがプライマル・スクリームのスタート地点である。

 もっともボビーは、83年にジーザス・アンド・メリー・チェインにドラムが叩けなかったにも関わらずドラマーとして加入。何ともパンクなエピソードだ。そして、84年にジム・ビーティらとプライマル・スクリームを正式に始動させ、86年にはデビュー・アルバム『Sonic Flower Groove』のレコーディング中にイネスも加入。こうして生まれた本作はいまの彼らからは想像がつかないほど、パステルズやフェルトといったいわゆるグラスゴー流の柔らかなメロディーが印象的な作品となっている。とはいえこの『Sonic Flower Groove』も、MC5やストゥージズ的な〈ロックンロール〉の攻撃性を漂わせはじめたセカンド・アルバム『Primal Scream』(89年)も、共にそれほど高い評価を得ることはなかった。彼らがシーンのトップに躍り出るには、3作目『Screamadelica』のリリースを待たねばならなかったのである。

『Screamadelica』は、プライマルがいまに至るまでその傾向を持ち続ける〈時代の様相/流行に寄り添う〉というスタイルを、全面的に映した最初の作品だった。ちょうどセカンド・サマー・オブ・ラヴ~アシッド・ハウスの全盛期だ。加えてアンドリュー・ウェザーオールとの出会いなどもあって、結果的にアシッド・ハウスにファンク、テクノ、ロックなどを呑み込み、それらを放出することで、ダンスとロックを幸福な形で繋げていったのである。このアルバムは、UKでもっとも実力を評価される音楽賞〈マーキュリー・プライズ〉を獲得。しかし同時にセカンド・サマー・オブ・ラヴという時代ゆえ、ボビーらはドラッグにも溺れていく。

 そんな彼らが4枚目のフル・アルバム『Give Out But Don't Give Up』のレコーディングのためにメンフィスに赴いたのは、実はドラッグなどから離れる目的でもあった。ジョージ・クリントンやジョージ・ドラクリアスらが参加し、バンドのルーツのひとつでもあるUS南部音楽の影響を封入したこの作品は、全英2位を獲得。ここでも、〈どんな状況にあろうと新たなことに挑戦するプライマル・スクリームらしさ〉がはっきりと見て取れる。しかしこのアルバムはプレスなどから酷評され、一方でバンドのドラッグ問題も深刻化していった。
▼プライマル・スクリームのベスト盤。

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