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特集

LEE "SCRATCH" PERRY(2)

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2008年06月19日 11:00

更新: 2008年06月19日 17:00

ソース: 『bounce』 299号(2008/5/25)

文/池城 美菜子

修業時代に培われた反骨精神

 リー・ペリーが音楽業界に身を投じるのは61年。36年生まれだからすでに24~5歳、ジャマイカ人にしては遅咲きだ。彼はカントリー(田舎)の生まれで、トラクターの運転手をしながら各地を点々とし、「内なる声に導かれて」キングストンに近づいていった。後に「地球との繋がりを感じられるトラクターの運転は好きだった」と発言している(宇宙より地球なのだ)。「貧しかった」とのコメント以外、成長期の話をしたがらないところを見ると、かなり苦労したのだろう。

 音楽の魔都、キングストンに到着するまでは時間がかかったが、そこからは早かった。当時の2大サウンドシステムにしてレゲエ史の出発点に燦然と輝くデューク・リードとコクソン・ドッドを訪れ、受け入れ態勢がリードよりはオープンだったコクソンに師事。〈何でも屋〉からスタートし、スカの流行と共に制作に力を入れるようになったスタジオ・ワンで、才能を開花させる。オーディションの立ち会いから録音現場の仕切り、音作りまでに参加していたのだから、この頃のスタジオ・ワン・クラシックの影に、修行中のペリーがいたのである。ニックネームの〈スクラッチ〉は、ペリーがオーディションを受けた時に歌った“Chicken Scratch”からきている。この時はシンガーとしてダメ出しをされたものの、スタジオ・ワンでペリーは懲りずに何曲かレコーディングもしている。

〈正当な評価がされない(クレジットがもらえない)〉という、このレーベルに関わった人間全員が遅かれ早かれ口にした不満を理由に、66年に独立。ほとんどのミュージシャン、アーティストが金銭的な不満を抱えながら、大人気のスタジオ・ワンから離れなかった時期に見切りをつけたリー・ペリーは、自分の可能性を信じていたのだろうし、反骨の人でもあるのだろう。フリーになってからはプリンス・バスター、クランシー・エックルズなど、スカ~ロックステディ期の重要人物と仕事をし、WIRLのスタジオで働き、力を伸ばしていたジョー・ギブスのレーベルに雇われるものの、2年も持たずに破綻。コクソンに対しては“Give Me A Justice”(訳:正義を与えよ/66年)、“I(Am)The Upsetter”(訳:俺は怒りまくり/67年)、ギブスに対しては“People Funny Boy”(意訳:まったく人間って奴は/68年)などの文句たらたらソングを吹き込んでいる。こうなると反骨精神というより、ただのひがみ屋さんではないかとも思えるが、“People Funny Boy”のヒットはレゲエを決定的に形作ったと言われているので、天才は時に怒ったりひがんだりしたほうが、人類のためになるかも知れない。

 このヒットで気を良くしたのか、従業員向きではないとやっと悟ったのか、68年に自分のレーベル、アップセッターをスタート。それまでの仕事でセッションしていたミュージシャンをアップセッターズと呼ぶようになる。翌年に放った“Return of Django”がUKで爆発ヒット。ナショナル・チャートTOP10入りをしてツアーも敢行した。この先しばらく、リー・ペリーは〈レゲエ〉そのものより半歩先をいく先駆者としての運命を背負うことになる。
▼リー・ペリーの関連書籍を紹介。

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