Elton John(2)
作曲家としての類い稀な才能
1947年3月25日、イギリスはロンドン北部のミドルセックスにあるピンナーという町で誕生したエルトン・ジョン。本名はレジナルド・ケネス・ドゥワイト。愛称はレジ。3歳でピアノを弾きはじめ、7歳で本格的なレッスンを受けるようになるとすぐさま才能を発揮。11歳からは奨学金を得てロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージックに通い、クラシック音楽の基礎を学ぶ。とはいえ、クラシックのピアニストとして大成することをめざしていたのではなかったらしい。エルヴィス・プレスリーやビル・ヘイリーに魅せられてロックンロールに夢中になったエルトンは、15歳頃から地元のホテルのパブで演奏したり、ブルーソロジーというリズム&ブルース・バンドで活動した。そしてある時、NME誌に載っていたリバティの〈才能を求む〉という広告を目にして応募。残念ながらオーディションには落ちてしまうのだが、その時に〈曲を付けてみないか?〉と歌詞を渡される。それが作詞家のバーニー・トーピンとの出会いだった。以来、バーニーとエルトンのふたりはチームを組み、良きパートナーとして仕事をするようになる。だが、最初の頃は他のアーティストに提供する楽曲を作っていた。つまりエルトンはシンガーである以前に作曲家として認められていたわけで、このあたりの出自を辿るとヒット・チャートに常住できた理由がおのずと見えてくるかもしれない。
ヒット曲を作るノウハウを把握したうえで、シンガーとして歌う。当時はシンガーがみずから曲を書くことはまだ珍しく、専門の作詞/作曲家が手掛けることが多かった。また逆に、台頭しはじめていたシンガー・ソングライターと呼ばれる人たちは、曲作りからの一切を自分ひとりでやってしまうことが多かった。つまりエルトンとバーニーのような二人三脚は珍しいパターンだったし、まずバーニーが歌詞を書き上げ、それにエルトンが曲を付けるという完全分業は特異としか言いようがない。エルトンはバーニーから詞をもらって数十分で曲を書き上げることも少なくなかったそうで、初期の多作ぶりがその事実を物語っている。
デビュー・アルバム『Empty Sky』をリリースした69年からから70年代前半にかけては、年間ほぼ1~2枚というハイペースでスタジオ・アルバムを制作。当時の業界全体のペースが2~3年にアルバム1枚だったという状況にあって、なかには2枚組もあれば、その間を縫ってライヴ・アルバムや映画のサントラまでリリースしていたのだから、改めてその旺盛な仕事ぶりには恐れ入るが、アイデアが湧き出て止まらなかったのだろう。セカンド・アルバム『Elton John』からは、〈僕の歌は君の歌〉との邦題で日本でもお馴染みの代表曲“Your Song”が大ヒット。その後もコンスタントにシングル・ヒットを飛ばしながらアルバムのリリースを重ねていく。
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