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特集

Andrew Weatherall(2)

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2007年09月20日 09:00

更新: 2007年09月20日 16:45

ソース: 『bounce』 290号(2007/8/25)

文/石田 靖博

セカンド・サマー・オブ・ラヴ

 アンドリュー・ウェザーオールは63年4月6日に英国はウィンザーに生まれた。多感な10代をパンク旋風吹き荒れるイギリスで育ったということで、当然のように彼もパンクにすっかり夢中になる。音楽そのものもさることながら、アンディ少年の心に楔を打ち込んだのはその精神性だった。伝統を重んじる階級社会のイギリスにおいて、既存の権威を否定するというパンクのアティテュードは画期的なものだったろうが、この姿勢は今後も彼自身の行動規範のひとつになっていく。そんな時期を経た80年代後半、ウェザーオールは、友人のテリー・ファーリーらと共にサッカーを中心にファッション、クラブ情報などを掲載したファンジン「Boy's Own」の発行をスタートする。

 87年、イビザ詣でを経てダニー・ランプリングが始めたパーティー〈Shoom〉に、ウェザーオールとファーリーはDJとして参加。この後数年に渡ってUKを席巻していく〈セカンド・サマー・オブ・ラヴ〉の発信地となったこのパーティーにおいて、ウェザーオールは思いっきりダークなニューウェイヴをスピンしたという。浮かれたい連中に冷や水をブッかけるような態度に、当時は脅しや暴力行為もあったらしい。が、決してアンチや嫌がらせではなく(ダークなものをスピンすることでバランスを取ったとの本人の発言もあるが)、この頃からウェザーオールは終始一貫してダークな音を好んでいたのだ。そして、その〈Shoom〉をきっかけに、彼らは音楽制作を開始する。ひとつは先述のファンジンを母体とした同名レーベル=ボーイズ・オウンにおける自分たちのユニット=ボカ・ジュニアーズとしての活動、もうひとつは、〈セカンド・サマー・オブ・ラヴ〉に呼応したロック・バンドたちのプロデュース/リミックス・ワークだった。なかでも90年に手掛けたマイ・ブラディ・ヴァレンタイン“Soon(The Andrew Weatherall Remix)”は白眉だったが、同年より表面化していったプライマル・スクリームとの共闘は、シーンにとって、そしてウェザーオール自身にとって非常に重要な事件となっていった。

 当時のプライマル・スクリームといえば、バーズを思わせるサイケ路線の『Sonic Flower Groove』(87年)で注目されるも、MC5ばりのガレージ路線へ転向した2作目『Primal Scream』(89年)で人気が急落していた時期。〈Shoom〉を介してクリエイション総帥のアラン・マッギーやボビー・ギレスピーと意気投合したウェザーオールは、『Primal Scream』の収録曲“I'm Losing More Than I'll Ever Have”をリミックスする。ヴォーカルをほぼ取り除き、アシッド・ハウス的なダンス・チューンの“Loaded”(90年)として生まれ変わった同曲は、〈セカンド・サマー・オブ・ラヴ〉のアンセムとして爆発的な支持を受け、その勢いで91年の歴史的傑作『Screamadelica』へ辿り着く。同作によってプライマルの人気と評価は一転して最高潮に達し、そんな傑作の手綱を取ったウェザーオールの名前も神格化されていった。対照的にボーイズ・オウンとの間には距離が生まれ、自身の秘蔵っ子であるワン・ダヴを送り出すなどの展開もあったものの、結果的にファーリーとの方向性の違いからウェザーオールはレーベルを離脱。なお、レーベルはジュニア・ボーイズ・オウンに発展し、アンダーワールドやダスト・ブラザーズ(後のケミカル・ブラザーズ)、エクスプレス2らを輩出する大手レーベルへと成長していく。

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