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特集

Smashing Pumpkins(2)

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2007年08月23日 12:00

更新: 2007年08月23日 17:37

ソース: 『bounce』 289号(2007/7/25)

文/新谷 洋子

時代が生んだロックの救世主

 88年のシカゴ。この町でジャズ・ギタリストの息子として生まれたビリー(ヴォーカル/ギター)は、当時働いていたレコード店でジェイムス・イハ(ギター)と出会い、ダーシー・レッキー(ベース)を交えてバンドを結成。当初はドラム・マシーンを使っていたが、まもなくジミーが加わってラインナップが確定し、90年4月に地元のインディー・レーベルからデビュー・シングル“I Am One”を発表する。これが即完売して話題を呼び、次のシングル“Tristessa”はサブ・ポップ経由でのリリース。さらにメジャーに移籍して91年初頭にファースト・アルバム『Gish』を完成させた。同作は全米で70万枚のヒットを記録するが、本格的なブレイクは93年の2作目『Siamese Dream』を送り出してからのこと。制作時、メンバーそれぞれがパーソナルな問題を抱えており、精神的にいい状況ではなかったというも、鬱屈したエネルギーを放出するようにしてドラマティックな曲展開と緻密なアレンジに貫かれた傑作に到達。ニルヴァーナの『Nevermind』とプロデューサー(ブッチ・ヴィグ)は同じながら対照的な作風を披露し、全米TOP10入りを果たして世界で全500万枚のヒットに至った。

 そして94年夏に〈ロラパルーザ・フェスティヴァル〉でトリを務めたパンプキンズは、ニルヴァーナやパール・ジャムと並ぶ90年代オルタナティヴ・ロックの旗手と位置づけられたが、シアトル発のグランジ一派ら同世代のアーティストからはあきらかに距離を置いていた。70年代ハード・ロックを影響源として共有しつつも、サイケデリアや王道のヘヴィー・メタル、UKニューウェイヴ、ひいてはボストンやELOやチープ・トリックといった面々に至るまで、実に多彩なインスピレーション源から材料を引用して厚く層を構築するプロダクションの妙が特徴と言えよう。

 実験欲旺盛で、しばしばプログレに近い壮大な音絵巻を展開することもあった。逆に、これだけ幅広い守備範囲を誇りながらもパンクという要素が完全に欠落していることが、重要なポイントだ。80年代末のシカゴは、名門インディーのタッチ&ゴー、そしてスティーヴ・アルビニというキーパーソンの本拠地であり、ミニストリーやジーザス・リザードといったカルト・バンドを輩出しているわけだが、そういったシーンとの接点はなく、アングラ志向は極めて希薄。だからパンクに根差した清貧思想も抱いていない。むしろ健全な野心を備え、オルタナティヴ世代の中では望んでスタジアム・バンドになった稀有なアーティストである。そう、カート・コバーンやエディ・ヴェダーのように、〈成功や名声=悪〉と捉えて罪の意識に苦しむことはビリーにはなかった。また父の影響なのか、〈誰でも楽器は弾ける〉というパンクのDIY主義とも相容れず、ミュージシャンシップを重視していたことも付け加えておきたい。

  では彼はカートたちと違って、ただひたすら利己的に自身の内面を掘り下げることに終始していたのかと言えば、ビリーの言葉はパーソナルな視点を貫きながらも、徐々に〈ジェネレーションX〉と総称された世代共通の虚無感や無力感、メランコリーを代弁するキャパシティーを広げていった感がある。そして抑揚の激しいサウンド共々、触れたら崩れ落ちてしまいそうなデリケートさ、逆に触れた者すべてを破壊し尽くすが如き凶暴性、深く底知れぬ悲しみなどなど、極端な感情の合間を揺れ続けた。それがもっとも顕著に表れたのが、2枚組のサード・アルバム『Mellon Collie & The Infinite Sadness』(95年発表)だろう。最初の2枚をプロデュースしたブッチから、フラッド&アラン・モルダーへとコラボ相手が交代。全米チャートで堂々の初登場1位を獲得し、全世界で1,000万枚の大台に乗ったバンド史上最大のヒット作となって、カートの死~ニルヴァーナの消滅がもたらした空白を埋める形で人気の絶頂を迎えた。

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