Joni Mitchell(2)
常に前進を繰り返して……
ジョニ・ミッチェル(本名、ロバータ・ジョーン・アンダーソン)は、43年11月7日にカナダ西部のアルバータ州フォートアクロードで生まれた。幼少時代の彼女は主にクラシックを聴いていて、ピアノを1年間学んだこともあった。が、思春期を迎えた頃には、ラジオから流れてくるロックンロールに魅せられ、やがてウクレレを弾きながら人前で歌うようになる。高校卒業後、彼女はカルガリーの美術大学に進学したが、折からのフォーク・ブームに刺激されて大学をわずか1年で中退。ミュージシャンの道を歩みはじめた。
65年、ジョニはトロントで出会った米国のフォーク歌手、チャック・ミッチェルと結婚し、2人でいっしょに活動するようになる。だが、蜜月時代は長く続かず、翌年には離婚。それから半年後の67年初頭からNYのグリニッチ・ヴィレッジで活動し、徐々にみずからの存在を広めていった。そんなジョニの才能をいち早く見い出した人物は、フォーク歌手のトム・ラッシュだった。彼はジョニの書いた“Urge For Going”を録音。また、ほぼ同時期にはバフィ・セイント・メリーが“The Circle Game”を、ジュディ・コリンズが“Both Sides Now”を取り上げ、しかも後者は67年に全米TOP10ヒットを記録している。こうしたことから、ジョニの名はデビュー作『Joni Mitchell』(68年)がリプリーズから発表された時点で、すでに一部の人たちには知られていた。
ギターは〈小さなオーケストラ〉と称されるが、ジョニのギターが奏でるハーモニーの豊かさは、そう形容するに相応しい。というのも、ジョニはデビュー当時からギターを変則チューニングして演奏していたからで、しかも彼女はそのユニークなコードの響きからイメージを膨らませて曲を作っていた。よって彼女の音楽は、最初から素朴なフォークとは一線を画していた。そして冒頭でも触れた『Blue』以降、彼女はフォーキーな弾き語りというスタイルから徐々に離れていく。
ジョニは画家でもあるが、彼女にとって音楽を作ることは、頭のなかでイメージしたものを言葉とサウンドで描いていくことに等しい。そのためには、なるべくいろいろな絵の具を用いることが望ましい。『Blue』までの彼女は、ロック系の絵の具を用いていたが、やがてそれだけでは自分のイメージする絵を描くことができないという現実にぶち当たった。端的に言うと、ロック系のミュージシャンには彼女の曲の凝ったコードやリズムを演奏することができなかったのだ。そこでジョニは、アサイラム移籍後第1弾となる『For The Roses』(72年)からフュージョン~ジャズ系のミュージシャンを絵の具として用いて、さらに複雑なハーモニーや即興性を採り入れていくようになる。『Court And Spark』(74年)は、彼女が初めて理想の画材を手にして描いたアルバムと言っていいだろう。トム・スコット(サックス)、ラリー・カールトン(ギター)、ジョー・サンプル(キーボード)、ジョン・ゲラン(ドラムス)……これらのミュージシャンを、ジョニはまさしく絵の具のように用いて、それまでより遥かに色彩感豊かな絵を描き上げた。加えて、ジャズ・ヴォーカリーズのグループとして有名なランバート・ヘンドリックス&ロスのレパートリー“Twisted”を取り上げ、初めて本格的なジャズにもアプローチした。次作の『The Hissing Of Summer Lawns』(75年)でも、ジョニー・マンデルとジョン・ヘンドリックス(ランバート・ヘンドリック&ロス)が共作した“Centerpiece”をカヴァー。また、一人多重録音による“The Jungle Line”には、アフリカのブルンディ・ドラムを取り入れ、世界各地の音楽への傾倒を露わにした。
『Hejira』(76年)を境に、ジョニはさらなる音楽的飛躍を遂げ、自分の音楽を新たな次元に引き上げた。このアルバムでは同年にウェザー・リポートに加入した天才ベーシスト、ジャコ・パストリアスを初めて起用。ジョニとジャコのコンビネーションは、次作『Don Juan's Reckless Daughter』(77年)でより緊密さを増し、さらには当時ウェザー・リポートにいたウェイン・ショーター(サックス)や元チック・コリア&リターン・トゥ・フォーエヴァーのブラジル人アイアート・モレイラ(パーカッション)、チャカ・カーンなどとも初共演。そのアイアートとチャカが参加した“Dreamland”はアフロ・ブラジル的なリズムを軸にした曲で、こうした世界各地の音楽に対する視野の広さは、同時代のピーター・ガブリエルやトーキング・ヘッズに通じるものだった。この後、ジョニはジャズ界を代表する黒人ベーシストのチャーリー・ミンガスとのコラボレーション・アルバムの制作に着手。が、制作途中の79年1月にミンガスが他界したため、『Mingus』(79年)はミンガス(作曲)とジョニ(作詞)の共作曲に、有名なミンガスの曲にジョニが新たな歌詞を付けた曲や夫人が録音していたミンガスの会話などで構成された。同作にはジャコやショーターなどに加えて、ハービー・ハンコック(キーボード)やピーター・アースキン(ドラムス)も参加。ジョニのジャズへの果敢なアプローチは、ここでひとつの到達点に達した。
プリンスは『Sign 'O' The Times』(87年)に収録した“The Ballad Of Dorothy Parker”で、ジョニの“Help Me”(『Court And Spark』に収録)の一節を引用している。つまりジョニにオマージュを捧げているのだ。そんな彼の『1999』(82年)から『Black Album』(87年録音)までの軌跡は、『Court And Spark』から『Mingus』までのジョニの軌跡に重ね合わせることができる。つまりプリンスは、〈革新と前進〉を身上とするジョニのスピリットの、真の継承者と言えよう。
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