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Janet Jackson(2)

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2006年10月19日 11:00

更新: 2006年10月19日 20:15

ソース: 『bounce』 280号(2006/9/25)

父と兄の呪縛を突破

 ジャネット“ダミタ・ジョー”ジャクソンは66年5月16日、インディアナ州北部の都市ゲイリーの生まれ。彼女が3歳の頃にはすでに、マイケルやジャーメインをはじめとする兄たちは、ジャクソン5として音楽シーンを席巻していたことになる。野心的な元ミュージシャンの父ジョゼフ(ジョー)のもと、西海岸に居を移していたジャクソン家、その末娘として育ったジャネットは、やがて7歳で初ステージを経験する。ジャクソン5のラスヴェガス公演での、兄ランディ(マイケルの弟)とのデュエットが彼女のお披露目となったのだが、そのステージ度胸にあるTVプロデューサーが注目。コメディー・ドラマ(いわゆるシットコム)の子役に抜擢される。その後もいくつかの番組でレギュラーを務め、順風満帆の芸能活動にも見えた。しかし父のジョーは、〈女優よりも音楽を〉と彼女にシンガーとしての修練を強要したと言われている。

 レコード・デビューも父親の意思で実現した。16歳でのデビュー・アルバム『Janet Jackson』(82年)は、しかしさほどぱっとせず、〈あのジャクソン家の末妹〉なる肩書きだけが人々に刷り込まれてしまう。さらに皮肉なことにそのリリースのわずか2か月後、兄マイケル・ジャクソンの『Thriller』がポップ史上空前の大ヒット現象を巻き起こし、ジャネットの名はいっそう黙殺されたかのようだった。2作目の『Dream Street』(84年)は、ようやく『Thriller』の熱が鎮まりかけた頃のリリースとなったが、前作と同様にそのセールスはジャクソン家の基準から程遠いものだった。

 18歳だった彼女は当時、人気グループのデバージのメンバーだったジェイムズ・デバージと恋に落ち、駆け落ち同然で結婚する。家族の猛反対から訴訟にまで持ち込まれたこの婚姻は、法的に無効とされ、わずか数か月で終わりを告げた(最初にデバージをフックアップしたのが兄のジャーメインだったというのも皮肉)。失意はやがて新たなアルバムへの決意へと変わり、ジャネットは新進気鋭の制作チームだったジミー“ジャム”ハリス&テリー・ルイスをみずから訪ねる。彼らがかつて所属したタイムのファンでもあったという彼女は、自分の音楽観だけでなくプライヴェートな苦悩も2人の前にさらけ出し、何日も語り合ったという。

 19歳から20歳にかけて完成させたアルバム『Control』(86年)には、束縛だらけの過去と決別したニュー・ヒロインの姿があった。収録された9曲のうち6曲がシングル・ヒットを記録したこのアルバムは、〈あるアーティストとプロデューサーの出世作〉に止まるものではなかった。無機質な空気を纏ったサイボーギッシュなテイストは、ポップ・アート風のジャケット・デザインとも相まって、80年代半ばの潜在的なフューチャリスティック志向を具現化。それは(一部で多分にプリンス的であったとしても)ポップ・ミュージックのネクスト・レヴェルを提示するものだった。また、ジャネットとジャム&ルイスは、かつてマイナス材料だった彼女のヴォーカルの脆弱性さえも、強力な武器へと置き換えてしまった。

 89年の『Rhythm Nation 1814』では、その路線を決定的なまでのクォリティーへと高めただけでなく、当時勢いのあったニュー・ジャック・スウィングさえ高度に進化させた。7曲の大ヒット(うち4曲が全米チャート制覇)を生んだこのアルバムで彼女は、時代を象徴するポップ・アイコンとして、カリスマティックなオーラを放つようになる。この時期のジャネットは、兄マイケルをも遠く置き去りにしたように見えた。また、マネジャーでもあった父とは前作の後すでに決別。名実ともにジャクソン家の呪縛を断ち切ったようでもあった。

 後年になって明かされたことだが、ジャネットは91年頃、ルネ・エリゾンドという『Rhythm Nation 1814』にも参加していた男性と秘密裏に結婚する。その後、故2パックと共演した初主演映画「ポエティック・ジャスティス 愛するということ」の公開を経てリリースされた『janet.』(93年)は、史上最高額での契約となったヴァージンへの移籍第1作。前作でも意識的に臨んでいたウィスパリング唱法にいっそう磨きをかけたこの作品は、90年代R&Bの新たな地平への示唆にも富むものだった。

 またも大ヒット作となったその『janet.』で、アーティスティックなポテンシャルをも証明したジャネットは、97年の『The Velvet Rope』で、ジャム&ルイスと共にさらなる深化を見せた。比較的地味な印象もある同アルバムだが、聴き応えという意味では彼女の作品で1、2を争うものだ。

 だが当時すでに夫ルネとの破局を迎えていたというジャネットは、その後しばらくは他者作品へのゲスト参加や、サントラでの新曲披露といった活動を展開。主要キャストとして映画本編にも出演した「ナッティ・プロフェッサー2 クランプ家の面々」(2000年)のサントラでは、当時のバウンス系R&Bモードをジャネット+ジャム&ルイス流にアップデートした秀曲“Doesn't Really Matter”で、あくなき創造性を見せつけた。その勢いを駆ったアルバム『All For You』(2001年)では、NYの異才ロックワイルダーの参画を得て、ジャネット+ジャム&ルイス流の変則ビートを提示しつつ、ポップ性もふたたび強めてファンの期待に応えてみせた。

 しかし、外部の有力プロデューサーを複数迎えた2004年の『Damita Jo』からは大きなヒット曲も生まれず、やや低迷した印象を与えてしまう(NFLスーパーボウルでの〈露出事件〉もマイナス要素になったようだ)。その反省もあってか、今回はふたたびジャム&ルイスとのコラボを軸に、交際しているジャーメイン・デュプリの総指揮という体勢で、新作『20 Y.O.』に臨むこととなった。ちなみにジャクソン家は、件のマイケル裁判を機にふたたび強く結束したと伝えられている。

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