当事者が明かすNOサウンドの秘密
50年代から60年代にかけて、アメリカの音楽シーンはロックンロールの素を求めてニューオーリンズへと赴いた。そこで求められたのは、デイヴ・バーソロミュー楽団、そしてそのドラマーであるアール・パーマーの叩くリズムだった。若きアラン・トゥーサンもこの楽団で録音を残している。
「ある時、ファッツ・ドミノがソロでヨーロッパをツアーしてる間に、3曲の録音を仕上げなくてはならなくなってね。ファッツの帰りを待っていると締め切りに間に合わないというので、私に仕事が回ってきたんだ。その頃、私はファッツのピアノをそのままに真似て弾くことができたから、〈ファッツが弾くような感じで弾いてくれ〉ってバーソロミューに言われたんだよ(笑)。そのうちの1曲が“I Want You To Know”というわけさ」。
その後、彼はリー・ドーシーやミーターズのプロデュースを手掛けたのをはじめ、数限りない名曲の誕生に立ち会う。その頃の思い出をこんなふうに語ってくれた。
「当時の私の家には、毎日のようにたくさんのミュージシャンが集まっていたんだ。アーマ・トーマス、アーニー・K・ドー、アーロン・ネヴィルといった連中さ。誰かがレコーディングするとなれば、別の誰かがバックで歌ったり演奏したりね。コズモ・スタジオで録音していた頃の話だ。その後、私がシー・セイント・スタジオをオープンしてからは、スタジオ自体がミュージシャンの溜まり場になっていった。とにかく、録音も曲作りも生活の一部。そんな毎日だったね。たくさんの仲間のなかでも、リー・ドーシーはスタジオのなかだけじゃなくて、多くの時間を共に過ごした親友だった。バイク仲間であり、キャデラックをいっしょに飛ばした仲であり、いっしょに違反切符を切られた仲であり(笑)。私が譜面を書いて、歌の指導をして、共に音楽を作り上げたんだ。ミーターズの場合はすでに自給自足バンドだったからね、私の役割はメンバーをスタジオのなかに放り込んでドアを閉めるだけだったが(笑)。勝手にやれ!ってね(笑)」。
こうして、彼のシー・セイント・スタジオで日夜生み出された新しいニューオーリンズの音は、全米から注目を集めるようになる。ザ・バンドをはじめ、パティ・ラベル、ラムゼイ・ルイス、ヴァン・ダイク・パークス、フランキー・ミラーなど、数多くのシンガーやミュージシャンが彼のスタジオを訪れては歴史的名曲を残したのだ。プロデューサー、ピアニスト、そして『Southern Nights』をはじめ、長く聴き継がれる名盤を残すシンガー・ソングライターと、マルチな才能を発揮してきたトゥーサン。彼はまさしく70年代のニューオーリンズを代表する顔役なのだ。
「一番はピアノ、二番はソングライティングでありプロデュース。その後ろ、ずっとずっと遠くのほうに歌(笑)。自分のために曲を書くほうがずっと難しいんだ(笑)。プロデュースする相手がいる場合は、そのパーソナリティーや歌声に刺激されてアイデアを組み立てていく作業になるから、そのアイデアを試したものを客観的に聴くことができる。だが自分一人だと、他人を見るようにはできないものなのさ。トゥーサンが眺めるトゥーサン、俺は誰なんだ?って(笑)」。
この謙虚な姿勢も、みんなに愛される秘訣なのかもしれない。「ニューオーリンズの音楽とは、私にとっては欠かせないパンと水みたいなものだ。血であり肉である。自分が自分であるための重要な要素なんだよ」と、いまも変わらない地元への思いを語ってくれたトゥーサン。エルヴィス・コステロとの共演作や、数々のニューオーリンズ救済アルバムをはじめ、ふたたび活発に動きはじめた彼の音楽への注目、そして期待は高まるばかりだ。
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