PET SHOP BOYS(2)
衰えを知らない人気の秘密
唯美主義者を自認するドビュッシー……じゃなく、ニール・フランシス・テナントは54年7月10日、英ノーサンバーランド州ノース・シールズ生まれ。カトリック系の厳しい学校で育った彼は、16歳になるとダストというバンドで音楽活動に踏み出している。75年にはマーヴェル・コミックスに編集者として入社(漫画好きだったマーク・ボランにインタヴューした経験もあるそう!)。その後いくつかの出版社を転々としたニールは、82年に「Smash Hits」誌に籍を得ている。それに先駆けた81年8月、キングスロードにある電器店で偶然知り合ったのが相棒のクリスだった。
ランカシャー州ブラックプール出身のチェ・ゲバラならぬクリストファー・ショーン・ロウは、59年10月4日生まれ。同じく高校時代に音楽を始め、ワン・アンダー・ザ・エイトなるバンドでトロンボーンを担当していたという。その後はリヴァプール大学にて建築学を専攻していたのだが、ニールと出会ったのはそんな矢先のこと。クラシックや舞台音楽、さらには50~60年代のオールディーズへの愛情と、リアルタイムのダンス・ミュージック(エレクトロ、ヒップホップ、ラテン・ディスコ、イタロ・ハウス、ハイエナジー、ミュンヘン・ディスコなど)への興味を併せ持っていた両者は、仕事を続けながらもいっしょに曲作りを開始。これが(恐らくNYの著名ディスコ・レーベルから取ったと思われる)ウェスト・エンド……後のPSBのスタートとなった。
83年、本業でポリスをインタヴューするべくNYへ赴いたニールは、当時2人が夢中だったハイエナジー職人のボビー・Oと空き時間にコンタクトを取り、デモテープを渡すことに成功する。これをきっかけにボビーとスタジオ入りしたPSBは、翌84年にデビュー・シングル“West End Girls”をリリース。サンフランシスコのクラブなどで局地的に話題を呼んだ同曲は2人をパーロフォンとの契約へと導き、ニールはすぐに音楽に専念することを決めている。85年7月のメジャー・デビュー・シングル“Opportunities(Let's Make Lots Of Money)”は全英チャート116位に終わったが、メジャー仕様にリアレンジしたセカンド・シングル“West End Girls”は10月のリリースからチャートをグイグイ上昇し、年明けには頂上に辿り着き、全米チャートでも首位をマークした。
そして、PSBは順風満帆にポップスターとしての航海を開始し、それはいまも続いている。メジャー契約後のシングルは最初の1枚を除いてすべて例外なくTOP20ヒットを記録し、それを20年も続けているのだから恐れ入るばかりだ。ニールの繊細でアンジェリックな歌声は、一貫して独特の叙情性をキープしている。歌詞のトピックも、純愛や不貞、セックスを描いた恋愛ものから、戒律や背徳など宗教に絡むもの、戦争や政治といった社会的なものまで多彩なのだが、そのいずれもを〈軽くて馬鹿馬鹿しいポップ・ミュージック〉として機能させ続けているのも凄い。カトリック教徒として育ったニールが植え付けられた〈罪の意識〉について異論を唱えた“It's A Sin”(88年)はその最たるもので、ニールの母校がメディアを通じて激しく非難するほどの騒ぎを巻き起こしている。一方、PSBならではのシニシズムが顕著なのは、U2のマジな曲をボーイズ・タウン・ギャングで知られるダンス・ポップとメドレーにして軽薄に響かせた“Where The Streets Have No Name(Can't Take My Eyes Off Of You)”(91年)だろう。クリスいわく「ロックやポップスで文脈だけが重視されることへの意見表明だ」とのこと。ニールは「楽曲の安っぽい魅力を引き出す行為」とも。ヒドい。が、確かに安っぽく、それでいて楽曲の魅力が活かされたPSBの面目躍如たる〈意見表明〉だった。
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