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特集

BILLY JOEL(2)

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2006年06月15日 12:00

更新: 2006年06月15日 18:35

ソース: 『bounce』 276号(2006/5/25)

文/高橋 道彦

プロとしてのキャリアをスタート

 64年、リーバー&ストーラーのレーベル=レッド・バードを支えたプロデューサーのジョージ“シャドウ”モートンは、根城とするロングアイランドのウルトラソニック・スタジオでデモテープを作っていた。それはシャングリラズの全米No.1ヒット“Leader Of The Pack”で、「そこでピアノを弾いているのは自分だ」とビリーは語る。モートンの記憶によれば、“Leader Of The Pack”ではなく“Remember(Walkin' In The Sand)”(全米5位)のほうということになるが、いずれにしてもビリーはわずか15歳にして十分に注目を集める存在だったということだろう。実際、67年にビリーはNYで人気を集めていたハッスルズのメンバーに誘われてグループに加入。ハッスルズはユナイテッド・アーティストと契約して2枚のアルバムを残し、デビュー・シングルの“You Got Me Hummin'”はNYを中心に局地的なヒットとなった(全米チャートでは最高112位)。また、70年にはハッスルズのドラマーだったジョン・スモールとアッティラというサイケデリック・デュオを結成し、アルバム1枚を残している。

 順調にキャリアを築きはじめたように思えたビリーだが、17歳の時に強盗の疑いをかけられて一晩を留置場で過ごしてパニックに陥ったり、69年頃には長く付き合った彼女と別れた悲しみから家具用光沢剤を飲んで自殺を図り、精神病棟に入れられて3週間も監視下に置かれたりもした。みずからの体験を作品として血肉化していくタイプのアーティストがいる。ジョン・レノンがそうだし、ビリーもそんなひとりといえるだろう。父親の不在により女性に囲まれた彼は、“Why Judy Why”“Rosalinda's Eyes”“She's Always A Woman”などで家族や妻を歌い、“We Didn't Start The Fire”のように時代を象徴する固有名詞を積極的に取り上げ、“Angry Young Man”(76年の『Turnstiles』収録)ではみずからの世代の声を強く代弁していくことになる。

 71年、ビリーはアーティ・リップのファミリー・プロダクションと契約し、ソロとしての初アルバム『Cold Spring Harbor』をリリース。60年代にカーマ・スートラ・プロダクションの社長だったリップは、シャングリラズの初録音をセッティングしたり、古くからNY音楽界の顔役だった人物である。ビリーが古くからの知り合いだろうと思われるリップを頼ったとしても不思議はない。が、この記念すべき初ソロはピッチが狂ったままリリースされるという苦い作品となった。また、リップとの契約自体が圧倒的にビリーに不利なもので、この後、彼はNYからLAに移り、ビル・マーティンという名でラウンジ・バーのピアノ弾きとして2年近くを過ごすことになった。

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