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特集

BILLY JOEL

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2006年06月15日 12:00

更新: 2006年06月15日 18:35

ソース: 『bounce』 276号(2006/5/25)

文/高橋 道彦


今年7月に日本に初上陸するブロードウェイ・ミュージカル「Movin' Out」が2003年に〈トニー賞〉10部門にノミネートされ、昨年はそのキャリアを俯瞰するボックス・セット『My Lives』もリリースされた。そして、いよいよ7年ぶりのツアーを開始。NYのマディソン・スクエア・ガーデンは、12公演すべてがソールドアウト。事前に想像できたこととはいえ、ニューヨーカーの熱狂ぶりは凄まじい。その様子は早くもライヴ・アルバム『12 Gardens Live』として伝えられるという。リリースを心待ちにする熱心なファンは、いまも世界中に存在するだろう。

NY郊外で育った少年時代

 ビリー・ジョエルは49年5月9日にNYのブロンクスで生まれた。ドイツのニュルンベルクで育ったユダヤ系の父親ハワード・ジョエルは、ナチスから逃れ、スイスやキューバを経由してNYへとやって来た。42年のことだ。父ハワードはショパンやシューベルトを達者にこなすピアノ弾きでもあり、NY市立大学で行われたギルバート&サリヴァン作品の公演(音楽監督はユリウス・ルーデル)にも参加していた。そこで知り合ったのが、歌手として公演に加わっていたブルックリン育ちのロザリンド。やがて結婚したふたりはブロンクスに暮らし、長女ジュディとビリーを儲けたのち、ロングアイランドのレヴィットタウンに家を買った。そんな両親のもとでビリーは4歳からクラシック・ピアノの正式なレッスンを受けるようになっていった。

 ビリーが育ったレヴィットタウンは、簡素化された大量生産工法で作られた人工的な住宅地だった。開発者のウィリアム・レヴィット自身が〈USで最初のサバービア〉と呼んだ。ビリーは自作“Leningrad”のなかで〈僕はマッカーシー時代の冷戦キッド〉と歌っているが、それはちょうど第一次ベビー・ブームにも当たる。ハワード・ジョエルのような兵士が第二次世界大戦の戦場から数多く帰還し、レヴィットタウンは大量の帰還兵を受け入れる土地となっていった。

 しかしどの家もそっくりで、殺風景な街の様子にうんざりし、疎外感を抱く子供たちもいたようで、ビリーもそのひとりだった。彼が7歳(10歳の頃という説も)の時に両親が離婚。ティーンエイジャーとなったビリーはパークウェイ・グリーン・ギャングの仲間と喧嘩に明け暮れ、ボクシングに入れ込んだ。それはちょうどビートルズが全米に上陸したころでもある。TVの「エド・サリヴァン・ショー」でビートルズを観たビリーは、クラシック・ピアノ以上に大きな刺激を受けてエコーズを結成。ヴェルヴェットの襟をあしらった青いジャケットを着たエコーズは、地元のハイスクールで人気となり、やがてグループはエメラルド・ローズ、さらにロスト・ソウルズと名前を変えていった。

  若きビリーが書いたロスト・ソウルズのナンバー2曲は、先述したボックス・セット『My Lives』で聴くことができる。ビーチ・ボーイズやバーズからの影響、それにレゲエ風のギター・カッティングまでが聴かれ、まだまだ未整理、それにグループの作品であるとはいえ、ビリーが早くも音楽的な雑食性を発揮しているように思えて、かなり興味深い。ヤング・ラスカルズのバックステージに入り込んでフェリックス・キャヴァリエに会ったビリーは、徐々にブルーアイド・ソウルに傾倒するようになってもいた。

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