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特集

高田渡(3)

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2006年05月18日 11:00

更新: 2006年05月18日 20:28

ソース: 『bounce』 275号(2006/4/25)

文/桑原 シロー

変わらないスタイルと姿勢、そして高まる再評価

 流行には一切興味はない――そんな頑固な姿勢を貫きながら彼の音楽活動は続けられた。80年代は『ねこのねごと』の1枚しかアルバムは出なかったが、ライヴに明け暮れる生活を送った。90年代に入ると旧作がCD化され、再評価が高まる。独特の音楽スタイルが新しい聴き手に驚きを与え、ファンを増やした。〈歌うシーラカンス〉などと舞台で自分を揶揄したりしながらも、日本各地を巡る生活は続く。シチューのTVCMソング“ホントはみんな”を収録した『渡』のリリースは93年、前作から10年ぶりのアルバムだった。プロデュースは鈴木慶一である(彼はチャック・ベリーの『Hail Hail Rock'n'Roll』を意識していたとのことだ)。90年代後半から2000年代前半にかけては、たくさんの仕事が形になった。映画「東京夜曲」の主題歌“さびしいといま”をシングル・リリース、99年には大工哲弘らと作った山之口貘へのオマージュ作『貘』と、初のライヴ・アルバム『BEST LIVE』、2001年には『日本に来た外国詩……』のリリース、金鳥のTVCMに登場したりもし、なぎら健壱らが集った『高田渡トリビュート』にも参加した。

 高田渡は古い自分の曲を再録音することをまったく厭わない人であった。歌というものは、時代を経ることにより、また違った命を与えられるはずだから歌い続けるのだ、とキッパリ言い切っていた。もちろんこれは時代の流れに耐え得る曲を作り続けてきたという自負も働いているに違いない。いつも「やめたいなぁ」とボヤいて客を笑わせていたが、真っ直ぐ歌に向かい続ける姿勢を貫いた高田渡。そんなボヤキを軽く流していたファンの多くは、いつだってすぐ手の届くところに彼の歌があり続けるんだと、そんな楽観的な気持ちを持っていたはずだ。

 2004年にドキュメンタリー映画「タカダワタル的」が公開された。この映画での彼は、独特の歩調で吉祥寺や下北沢、そして京都を歩き回っている。やっぱり〈街の人〉なのだなぁ、そんな感慨を抱かずにはいられない映画だった。個人的な話をすれば、高田渡は吉祥寺の風景そのものだった。〈いせや〉の店先で、ハモニカ横丁で、視界に飛び込んでくることしばしば。数々のシーンは、あの〈すれ違い〉の時の風景を頭の中に甦らせてくれた。

 この映画のヒットにより、若い音楽ファンの間で彼の知名度は一気にアップした。彼も精力的にキャンペーンなどで各地を飛び回り、ライヴも数多く行った。2005年4月3日、北海道白糖町でのライヴ後、体調を崩して釧路の病院に入院、同月16日に息を引き取った。享年56歳であった。父・豊の年齢を越せなかった。

 息子の高田漣は、彼の音楽を「木村伊兵衛の写真のようだ」と言った。「特にベルウッドに移ってからの作品を聴いて思うのは、アングルが常に一点だけを捉えている感じがあって、風景や人物をぱっと切り取っているだけなのに、そこに人の郷愁を掻き立てずにはいられない何かがある。だから、その場にすっと入っていける」と。木村伊兵衛は高田渡が敬愛する写真家である。まったくそのとおりで、他人の詩を借りた場合も言葉は確実に彼の目となっていたし、地面をしっかり踏みしめた歌は風景をブレさせることもなかった。こんなに長い間、〈ブレない〉音楽活動を続けられた人をぼくは知らない。和久井光司が過去の作品のライナーノーツで、〈高田渡ほど“最初からわかっていた人”をぼくは知らない〉と書いたが、まったく同感である。また今晩も渡さんの音楽を前にし、わかった振りをしていることだろう、頭掻きながら。


リリースされたばかりの『高田渡アンソロジー』(avex io)。URCでリリースした2枚のアルバム『高田渡/五つの赤い風船』(シングル曲を追加収録!)と『汽車が田舎を通るそのとき』に加えて、中津川フォークジャンボリーでのライヴ音源と、初CD化/未発表のライヴ音源も収録した4枚組のボックス!

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