高田渡(2)
武蔵野(吉祥寺)フォーク・シーンの顔役
三鷹にアパートを見つけ、そこから武蔵野の住人として生活をスタートさせた高田は、ベルウッドで72年に『系図』、73年に『石』という名作を作り、武蔵野フォーク・シーンの中心人物となる。また、東京に帰るきっかけを与えたシバらとジャグ・バンド・スタイルの武蔵野タンポポ団を結成、72年に『武蔵野タンポポ団の伝説』をリリースした(75年に『もうひとつの伝説』を発表、94年に再結成している)。75年には細野晴臣、中川イサトらとLAに渡って録音した『FISHIN' ON SUNDAY』(ヴァン・ダイク・パークスや、フレッド・タケットが参加!)を、佐久間順平や小林キヨシらとディキシーランド・ジャズをプレイするヒルトップ・ストリングス・バンドを組み、77年には『ヴァーボン・ストリート・ブルース』をリリース。
さまざまなレコードを聴き漁って身につけた彼の演奏テクニックは超一流で、フィンガー・ピッキングの上手さは他のミュージシャンの憧れであったとも言われる。これらの作品はどれもアメリカン・ルーツ・ミュージックの造詣の深さを感じさせる作品ばかりで、聴いていると彼の勉強家(かつ努力家)としての側面が見えてくるのだが、決して知識をひけらかすような、高踏的だったりマニアックな部分はまったくもってない。そもそもそんなもの、高田渡作品には無縁なのだ。
「他人には厳しい人だったな。特に自分と同じ音楽スタイルをやってる人たちには厳しかった。基本的にはマニアックな人だから、〈ミシシッピ・ジョン・ハートはそういうふうに弾かない〉とか手厳しいことを言っちゃうんですよ(笑)。僕はたまたまスティール・ギターで、本人の中にないものだったから、観念的なことしか言われなかったけど、マンドリンを弾く場合にはいろいろ言われたな」と、そういえば高田漣は話していた。やりとりのシーンが目に浮かぶ話だ。