高田渡
大滝詠一の曲だけをカヴァーしたアルバム(!)を作ろうとしていたとか、鈴木惣一朗と息子の高田漣が、細野晴臣との共演作を画策していた(漣くん曰く、渡さんは珍しく躊躇して、「細野くんとやるには僕はもう少し整理しなきゃいけない」と話してたという)、なんて実現しなかったプランを聞くと、口から出る言葉はただ、チクショーだけ。ドキュメンタリー映画「タカダワタル的」のDVDに付録されたインタヴュー映像でも、虫の歌詞ばかりを集めた作品のアイデアを話してたっけ。今日は何日だ? 4月11日か。もうすぐ渡さんの一周忌である。
“自衛隊に入ろう”が放送禁止歌に
高田渡のデビュー・アルバム『高田渡/五つの赤い風船』は、69年2月に発足したばかりのURCから第1回配布レコードとして世に出された。メイン曲は、第3回関西フォークキャンプなどで披露されて、すでに評判を呼んでいた“自衛隊に入ろう”だ。遠藤賢司や南正人も参加していた〈アゴラ〉というフォーク団体に身を置き、ライヴ活動を行っていた高田だが、この曲のおかげで一気に、いわゆるアングラ・フォーク派の先鋒と目されることとなる。放送禁止歌の烙印を押されてしまったりもする(“三億円強奪事件の唄”もまた同じ扱いを受けた)この曲をのちに彼は封印してしまうのだが、それは感性を駆使して作り上げたはずの曲が自分の意図を超えた扱われ方をしたこと(反権力を象徴する歌として政治運動の場に持ち出されたことなど)への〈なんだかなぁ〉という気持ちもあったと思われる。こういう役割は私らしくない、そういうことで注目されるのはちょっと疲れるよ、というふうな声を、同年10月にリリースされた『汽車が田舎を通るその時』に聞くことができる。全編自作の詞で作られたこのアルバムは、自分の普通の生活と内なる世界を見つめた歌が並んでいた。また、トラディショナル・フォーク、ブルースの歌詞を咀嚼し、自分なりに表現する術もすでにここで完成している。
高田渡は、49年1月1日、岐阜県本巣郡北方町に生まれた。父・豊は、共産党員で詩人であった。故郷を捨てた父は家族を連れて東京に移り住み、住まいを転々とする生活を送る。高田は、自伝「ヴァーボン・ストリート・ブルース」で、この時期の貧乏生活を振り返り、日陰で一生懸命に生活する人々の中で育ったことが「僕の根っこになっていることは間違いない」と語っている。兄が持っていたブラザース・フォーのレコードを聴いた高田が、フォーク・ミュージックに目覚め、ピート・シーガーやウディ・ガスリーのレコードを買い集めるようになったのは、中学を卒業して印刷会社の文選工として働いていた頃だ。そして、市ヶ谷の定時制高校に通う18歳あたりには、音楽評論家・三橋一夫に教わった、明治・大正の演歌師で“オッペケペ節”などで知られる添田唖蝉坊(そいだあぜんぼう)の詩にメロディーを乗せて歌ったり、オリジナル曲も作るようになった。やがてレパートリーの中の“自衛隊に入ろう”が注目され、彼はデビューを果たすのである。
〈三条へいかなくちゃ/三条堺町のイノダっていうコーヒー屋へね〉というフレーズで始まる“コーヒーブルース”。これは高田渡の京都生活時代に作られた名曲のひとつ。高校を中退して京都に移住した理由には、所属した高石事務所があったことや、関西での受けが良かったことなどもあった。ミニコミ誌「ばとこいあ」の発行に携わったり、亡くなるまで交流が続くミュージシャンらとの出会いがあった2年間だったが、彼は東京へと戻る。奥さんを連れて。関西フォーク・シーンに少し嫌気が差したことも上京することになった一因だと言われているが、そんな心境は、71年にキングから〈ファースト・アルバム〉と銘打ってリリースされた『ごあいさつ』に表れているような気がする。ここにははっきりと、当時のフォーク・ソングの多くが抱えていたものと違った世界が現れている。訴えることばかりに気を取られて自分の足元を見ることを忘れた連中へのカウンターを食らわせる、といった内容なのであり、まさに高田渡本領発揮、といった仕上がりとなったのである。日常に生じるやるせない気持ちやおかしな風景を描いた〈詞〉は、愛読していた山之口貘など現代詩人による〈詩〉を用いたもので、このような曲作りのスタイルは以降もずっと続けられていくことになる。なお本作は、URCのレーベルメイトであった、はっぴいえんどがバックを務めたナンバーも多く収録しており、音楽の幅の拡がりも見せる充実作となった。