こんにちは、ゲスト

ショッピングカート

特集

Massive Attack(2)

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2006年04月20日 13:00

更新: 2006年04月20日 18:15

ソース: 『bounce』 274号(2006/3/25)

文/栗原 聰

そして3人が残った

“Tearing Down The Neighborhood”を自主制作した後、87年には唯一のディスコグラフィーとなる12インチ・シングル“Friends And Countrymen”を4th&ブロードウェイからリリースするものの、ファミリーは次の段階へとシフトチェンジする。伝説的な86年の来日以降、マイロは日本とのコネクションを強め、後にMAJOR FORCEからも作品をリリース。ネリーは以前から交流のあったロンドンのソウルIIソウルに活動の場を移した。ダディGらは88年にスミス&マイティとカールトンの力を借り、ルーファス&チャカ・カーンのカヴァー“Any Love”を制作する。名義は〈Massive Attack featuring Daddy Gee & Carlton〉。

「ちょうどマッシヴ・アタックを結成するところだった。スミス&マイティやロニ・サイズたちと〈アンダーグラウンド・マッシヴ・アタック〉という名前にしようと言っていたんだ」とダディG。名前に関してはマイロのアイディアもあったという。「でも、誰もが個性的だったために各自のことをやりたいという気持ちを持っていたから、結局僕らはマッシヴ・アタックを結成したんだ」。

 そして、3人が残った。ダディG、3D、マッシュルームによって結成されたマッシヴ・アタックは、“Friends And Countrymen”に収録されていたバート・バカラック・カヴァー“The Look Of Love”で歌っていたシャラ・ネルソンをフィーチャーした“Daydreaming”で、90年秋にヴァージン傘下のサーカから正式にデビュー。そして91年春、“Unfinished Sympathy”を先行シングルとしてファースト・アルバム『Blue Lines』がドロップされる。

「『Blue Lines』はDJのアングルから出来たアルバムだった。ファースト・アルバムの時は僕らもまだナイーヴだったね。エネルギーがあったし、熱意があった」(ダディG)。

 サンプリングやミックス、ダブのヴァージョンにレア・グルーヴ・カヴァーと、ワイルド・バンチ・サウンドシステムから培われたプロダクションのテクニックやセンスは、たしかにDJ志向だが、見え見えの強引なハイブリッドではなく、彼らはナチュラルに新たなスタイルを生み出していた。〈洗練〉という言葉でも説明しきれない音楽のマジック『Blue Lines』は、いまだにその音を知る人は知らない人に推薦したくなる、クラシックとして受け継がれている。

 その後、シャラ・ネルソンはソロとして独立するものの、彼らは94年秋にセカンド・アルバム『Protection』をリリース。エヴリシング・バット・ザ・ガールのトレイシー・ソーンを招き、さらにはシャット・アップ&ダンス周辺で活動していたニコレットをフックアップ。ワイルド・バンチ時代から助演していたトリッキー・キッド=トリッキーが最後に参加したアルバムとなり、プロデューサーとして旧友ネリー・フーパーも参加。『Protection』と前後してリリースされたポーティスヘッド『Dummy』、トリッキー『Maxinquaye』を軸に、〈ブリストル〉があたかも音楽ジャンルかのように世間で注目を浴びたのはこの頃だ。例えばビートルズやローリング・ストーンズがそうであったように、他国の文化から誕生した音楽に巧みなアレンジを施すUKらしいヒップホップの解釈として、彼らはアメリカでも局地的に評価と人気を集めた。さらに、95年初めにはマッド・プロフェッサーによってダブ再構築された『No Protection』という副産物も届けられる。〈大攻撃〉のマンガ・ジャケは、自分たちのルーツであるダブの存在を強力にアピールした。90年代、マッシヴ・アタックがシーンに与えた影響は大きい。

「そう言ってもらえるのは何よりの誉め言葉だよ。そもそも僕らは影響力のあるアーティストになろうとしたわけではなかったし、当初はあり余るほどのエネルギーがあったものの、それをどうしていいかわからなかった」(ダディG)。

インタビュー