The Notorious B.I.G.(2)
ラッパーとしての新たな人生
が、その直前まで売人をしていたビギーのことである。あくまでも、本人としてはハードコアなままでいきたかった。こうした方向性は、一部で出回ったアルバム・デビュー以前の音源を集めたミックステープを聴いてもよくわかる。何しろ、彼は“Machine Gun Funk”を94年9月(フェイス・エヴァンスと結婚した翌月)リリースのファースト・アルバム『Ready To Die』からの先行シングルとして真剣に考えていたというのだ。このアルバムのレコーディングも、その手のハードな曲先行で進められていった。が、パフィとしては、ある程度ビギーの好きなように進めさせておいてから、〈ラジオでかからなければ、誰も聴いてくれないのだから〉という線で彼を説得しようという思惑だったようだ。これが正しい判断だったことは、それぞれアイズレー・ブラザーズの“Between The Sheets”とエムトゥーメイの“Juicy Fruit”を大胆にサンプリングした“Big Poppa”と“Juicy”を、ビギーを説き伏せる形で作り上げ、結果的にポップ・チャートの上位に食い込むほどの大ヒット(前者はミリオン・セラーを記録)に押し上げたことで証明される。もしこの2曲がなかったら、ビギーがコアなリスナーに絶賛されることはあっても、そのスターダムは確保できなかったはずだ。また、(かつて「こんなカワイコちゃん見たことない」と言ってくれた)ビギーのことをいまだに(一方的に?)愛して止まないリル・キムを擁するグループ=ジュニア・マフィアを95年に華々しく売り出すこともできなかっただろう。
しかも、この2曲(さらに“One More Chance”も加わる)によって、ビギーのハードコアな資質が損なわれることは決してなかった。リリースから半年でセールスが100万枚に達した『Ready To Die』を、タイトルを意識しながら最後まで聴き進めていったリスナーは、恐らく何とも言えない後味の悪さを味わったに違いない。このアルバムの幕切れでは、環境や周囲のプレッシャーに負けて、ビギー自身が自殺してしまうのである。ただ、次のアルバムを早々と『Life After Death』と名付けた彼は、〈周囲のあらゆるものに対して怒りを覚えていた売人時代は、死んだも同然の人生だったが、ラッパーとして成功したいまから新たな人生が始まる〉という意味がタイトルに込められていると語っていた。96年10月には長男CJも生まれている。まさに“Sky's The Limit”――きわめて前向きな思いがそこにはあったのだ。
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