The Notorious B.I.G.
実に2年以上の構想期間を経てようやく具現化し、このたびリリースされた『Duets: The Final Chapter』。ここでは共演アーティストがかなりの数に及び、実際には〈デュエット〉の枠に収まりきっていないのだが、それは参加希望者があまりに多かったためだという。こじつけではないが、ノトーリアスBIGことビギー・スモールズのあまりにも短かすぎた生涯を振り返る時もまた、その人生のさまざまな局面において、彼に貴重な助言を与えたり、サポートする、いわば〈人生の客演者〉が絶妙なタイミングで現れたことで、おのずと生きてゆく道が切り拓かれていったようなところがある。
周囲に導かれて浮上した才能
ストリートにいた頃の彼の半生を踏まえたファースト・アルバム『Ready To Die』のイントロにも反映されているように、クリストファー・ウォレスがブルックリンに生まれたのは、72年5月21日のことだった。ただし、曲の内容からイメージされるのとは異なり、ジャマイカ系の母親ヴォレッタが教育の重要性を痛感していたことから、息子をカトリック系の私立小学校に入れる(後に公立校に転入するのだが)。人一倍知的好奇心の旺盛な少年として育った彼は、その知識を踏まえて、大人に〈口答えをしている〉と誤解されるほど弁の立つ、近所でも評判の存在だったという。後にラッパーとなった彼が書いたライムをよく聴いてみると、ストリートのスラングだけではなく、術語(テクニカル・ターム)や白人っぽい言い回しも扱われ、独特のヴォキャブラリーが形成されていることに気付かされるが、その起源を少年時代に見い出すこともできる。
とはいえ、彼が生まれ育ったブルックリンのベッドフォード=スタイヴェサント(通称ベッドスタイ)という地域の環境、そこから生まれてくる周囲からの圧力、そして、クラックやコカインが一気にストリートに流出するようになった80年代中盤にティーンエイジャーの時期が重なったこともあり、ウォレスもやがてクラックの売買に手を出すようになる。ビギー・スモールズというMCネームも、一時期〈ショバ〉をNYよりも実入りのいいノースキャロライナに変えた頃、TVでシドニー・ポワチエ主演の映画「一発大逆転(Let's Do It Again)」を観ていた相棒が、劇中の登場人物の名前を聞いて〈これだ〉と思ったのが、きっかけだったという。この頃、ウォレスは〈B.I.G.〉と名乗っていたが、まだ、ラップは趣味の範囲でしかなかった。〈ラップ・ゲームに参入していなかったら、クラック・ゲームにどっぷりつかっていたはずだ。ブツを捌いてるか、撃たれて吹き飛ばされてるか、そのどちらかだったろう〉と本人も回想している。
ウォレスは最初からラッパーになろうとして、売り込みに奔走したわけでは決してない。彼の才能を見抜いた仲間のDJ50グランドがデモテープ作りを進めて、近所に住むミスター・シー(ビッグ・ダディ・ケインのDJとしてツアーに同行していた)にそのテープをなかば強引に聴かせ、それが未契約の注目MCを紹介する「The Souce」誌の〈Unsigned Hype〉欄で紹介されることになり、さらにハードコア・ラッパーを探していたアップタウンのA&R=ショーン“パフィ”コムズの目に留まったのだ。つまり、20歳そこそこのビギーの才能を理解し、惚れ込んだ人たちの間で勝手に話が進んでいったのである。アーティストとしてこんなに理想的なことはないが、ビギーの場合は〈カネを稼ぐのならストリートで〉という意識もまだあっただろう。
彼はまず、パフィが見習いとして働いていたアップタウンと契約、当時そこでパフィーが売り出していたメアリーJ・ブライジの“Real Love”や“What's The 411”のリミックスにフィーチャーされる。ビッグ名義でリリースしたソロ・デビュー曲の“Party And Bullshit”は、プロデューサーのイージー・モー・ビーからラスト・ポエッツの“Niggas Are Scared Of Revolution”を聴かされ、その1フレーズを逆手にとって生まれたものだという。リリックスの展開にフリースタイル的に生まれた形跡が残されているという点でも、このデビュー曲はもう少し注目されるべきだろう。そして、92年8月の長女ティアンナの誕生が近づいた頃、アップタウンを正式に解雇されたパフィの立ち上げたレーベル=バッド・ボーイと契約を交わし、〈The Notoirous B.I.G.〉というアーティスト名で、いよいよその活動は本格的になっていく。
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