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特集

Patti Smith(2)

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2005年12月22日 18:00

ソース: 『bounce』 271号(2005/11/25)

文/五十嵐 正

ロックとアートに明け暮れた日々

 パティ・スミスは46年12月30日にシカゴで生まれた。育ったのはフィラデルフィアから川を挟んですぐのニュージャージー州ウッドベリーである。父親は工場に勤め、母親は売れないジャズ歌手でウェイトレスもしていた。経済的にはあまり豊かな家庭でなかったようだ。父が無神論者で母親が〈エホバの証人〉の熱心な信者という環境は、彼女の作品に現われる宗教的イメージに影響を与えたに違いない。高校生のときは他の生徒に溶け込めず、フランスの象徴主義の詩人、アルチュール・ランボーやビート世代の詩を読み、ローリング・ストーンズやドアーズ、ボブ・ディランなどのロックを熱心に聴くことで自分の居場所を見つけ、想像力を育んでいった。高校卒業後はいったんカレッジに進学するが、妊娠のために中退。出産した子供を養子に出して、地元の工場で流れ作業の仕事に就く。その頃の「貧しい暮らしをしていたという状況や、その落とし穴にずっといたくない、自分の活動ができるようになりたいという気持ち」は、後に“Piss Factory”で描かれている。

 67年に仕事で貯めたお金でNYに移る。書店で働いていたときに、当時はまだ学生だったロバート・メイプルソープと出会う。彼は人生のほとんどをホモセクシャルとして生きることになるのだが、この時にはパティと恋人同士になった。69年には、たぶんランボーやヴェルレーヌなどのフランスの詩人に憧れた結果なのだろうが、パティは妹とパリに渡り、街頭でパフォーマンスを披露して小銭を稼ぐ体験をしている。帰国後はメイプルソープとチェルシー・ホテルで短期間暮らし、それからNYのアンダーグラウンドな演劇界に関わるようになる。彼女の演劇活動でもっとも知られるものは、71年に上演されたサム・シェパードとの共作及び共演による「カウボーイ・マウス」だろう。同時期には詩人としての活動も始めている。

 同じ頃、もうひとつの重要な出会いがあった。レコード店に勤める傍ら、ロック評論家として文章も書いていたレニー・ケイに出会ったのだ。店内で流れていた音楽に合わせて踊り出した客のパティを見て、レニーがカウンターから飛び出していっしょに踊ったのが2人の初対面だったという素敵な逸話がある。パティはレニーの書いたドゥワップについてのエッセイに感心して、2人が初期のあまり知られていないロックンロールへの愛情を共有していることを知る。そして71年春にセントマークスの教会で詩の朗読をすることになった時、彼女は伴奏を頼み、レニーは3曲でエレキ・ギターを弾いた。それがパティの音楽活動のきっかけとなる。それからの2年間、彼女は演劇と詩の朗読を続け、「Cream」などのロック誌にレコード評を寄稿し、詩集を2冊出版した。また、ブルー・オイスター・カルトに歌詞を提供したりもしている。

 73年後半から、パティとレニーは定期的なパフォーマンスを始める。その翌年にはキーボード奏者のリチャード・ソールも加わり、彼らのパフォーマンスは詩の朗読、即興的な言葉遊びと演奏、ロックンロールのオールディーズのカヴァーなどが混ぜ合わされたユニークなものに発展し、NYではその評判が次第に高まっていった。そして74年6月にメイプルソープがスタジオ料金を負担して、パティは自主制作盤『Hey Joe/Piss Factory』を録音する。“Piss Factory”には前述のとおりニュージャージーの工場で働いていた頃のやり場のない思いが描かれていた。カップリング曲“Hey Joe”はジミ・ヘンドリックスやバーズで知られるロック・スタンダードのカヴァーだったが、そこにパティ・ハースト(誘拐され、犯人の過激派に加わった新聞王の娘)についてのモノローグが加えられていた。どちらの曲にもパティがしばらく付き合っていたテレヴィジョンのトム・ヴァーラインが参加している。そのテレヴィジョンのシングルと共に、これはパンクのDIY精神を最初にレコードという形にした自主制作盤となった。

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