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特集

George Clinton(3)

カテゴリ : ピープルツリー

掲載: 2005年10月20日 19:00

ソース: 『bounce』 269号(2005/9/25)

文/高橋 道彦

パーラメントとファンカデリック

 60年代に入ってグンと頭角を現わしてきたモータウンは、若きクリントンにとって理想のレーベルのようにも思えた。62年、モータウンの出版会社=ジョベートのNYオフィスが誕生するとクリントンはオーディションを受け、ジョベートのソングライターとして働きはじめた。63年にはパーラメンツとしてもデトロイトに行き、モータウンのオーディションも受けているが、正式なリリースは果たせなかった(プレスまでされた曲もあるが未発表に終わっている)。

 パーラメンツがモータウンへデモとして残した曲に“I'll Bet You”と“Can't Shake It Loose”もあった。前者は後にクリントンみずからがファンカデリックで取り上げ、ジャクソン5も歌っている曲。後者はシュープリームズの『Love Child』(68年)に収録されている。いずれも何年か後に花開いたことになる。60年代前半にしてパーラメンツは時代を先取りしていたのかもしれない。63年とはワシントン大行進が行われ、リズム&ブルースやドゥワップからソウル・ミュージックの時代へと季節がはっきりと移ってきた時期だ。翌64年にはビートルズが全米を席巻。パーラメンツも60年代半ばには花嫁衣装姿でステージに立つなど、来るべきサイケデリック時代に対応する準備を着々と進めていた。クリントンはデトロイトの新進レーベルであるゴールデン・ワールド/リック・ティック、レヴィロットなどにソングライター/プロデューサーとして関わり、ヒットを生んでいた。ショウビズに嫌気がさしてニュージャージーで床屋に専念した時期もあったが、67年に大きな転機が訪れた。レヴィロットで録音していた“(I Wanna)Testify”がR&Bチャートで3位、ポップ・チャートでも20位まで昇る全米ヒットとなったのだ。クリントンはようやくデトロイトに腰を落ち着かせるようになった。そして、彼の尖った音楽性はモータウンのプロデューサー、ノーマン・ホイットフィールドを大いに刺激した。テンプテーションズの“I Can't Get Next To You”は、クリントンや彼の周辺が生み出したフレーズをホイットフィールドがいただいた曲だ、とクリントンは回想している。

 70年、クリントンたちはウェストバウンドからファンカデリックのファースト・アルバム『Funkadelic』をリリース。パーラメンツもパーラメントと改名し、ホランド=ドジャー=ホランドが設立したインヴィクタスから第1弾アルバム『Osmium』を発表している。どちらもR&Bチャートではまずまずの成果を残したが、大ブレイクには程遠かった。シングルから大きなヒットが出ないからだ。それはそうだろう、“Maggot Brain”や“I Call My Baby Pussycat”といったタイトルの曲をラジオがかけたがるハズはない。シングルとして再度大注目を集めるのは、ボンデージ/SMを匂わせつつもポップさを増したパーラメントの“Up For The Down Stroke”(74年)まで待たなければならなかった。

 さらに当初、ロック色の強いファンカデリックを受け入れたのは、ジミ・ヘンドリックスのデビュー時と同様にUKのほうだった。英「Rock & Soul」誌は70年9月号でファンカデリックに2ページを割き、デトロイトのライヴに25,000人の観客を集め、シングルはデトロイトだけで10万枚のセールスを上げたと伝えている。71年、ファンカデリックは初のUKツアーも計画。ロンドンではロイヤル・アルバート・ホールでのコンサートがブッキングされていたが、これは結局おじゃんとなった。由緒正しいこのホールに、ファンカデリックのようなキテレツな連中は相応しくないと判断されたのだ。さすがファンカ、面目躍如。その後、彼らは同じように同ホールから締め出されたフランク・ザッパ&マザーズ・オヴ・インヴェンションと合流し、再度UKツアーのスケジュールを組み直したという(「Rock & Soul」誌71年11月号)。

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